2009冬 文明としての宗教

GFへ

 長崎の外海町にいったのは何年前になるのか。午後の陽光に輝く東シナ海の美しさはさることながら、あの日は実に不思議な時間だった。われわれに賛美歌をうたってくれた修道女の方も忘れがたいが、遠藤周作記念館も、なんだか原体験的な記憶になっている。
 あの場所で感じたことがふたつある。ひとつは、キリスト教を語ろうとしたら、なぜこんなに血みどろの話になってしまうのか、ということ。そのむごたらしさは、Wの宗教観いにはひどくそぐわない気がした。あとひとつは、遠藤のことばの「文明よりは心」という表現への違和感だ。Wの基本にある考えでは、キリスト教であれ、仏教であれ、受け入れるがわから見ると、それらが広まったのは文明そのものだったからだ。ひとびとは新たな宗教を、文明として受け入れたのだ。文明だからと観念して、受け入れざるを得なかったのだ。それは、時代をこえたできごとでもあった。
 以下は、冬休みに考えたこと。

 仏教という文明がおしよせてきたとき、(為政者たちは別として)、日本で暮らしていた人びとは、それまで胎内で暮らしてきたかのような安住の小世界から突然、空という外界に引きずりだされてしまいました。それはあまりにも広く、頼りどころのない空間でした。彼らは、すでに前世だったとしか思えない仏教到来以前の小宇宙をなつかしみ、いつかまたそこに還るときがくるのを待つ、という形で仏教を受け入れました。「この世」とは、ただ一時的な呪わしい世界だったのです。
 19世紀に至り、日本は再度、西洋文明を受け入れました。が、前回のような混乱は起こりませんでした。なぜなら、「この世」は仮構にすぎないという観念は当たり前のことになっており、ただその仮構の部分が様変わりしたに過ぎなかったからです。しかし、西洋からやってきた「この世」はすでに区劃されていました。日本がその中に参劃するには、今度は「日本」という小宇宙を捨てるしかありませんでした。その新しい「この世」は、仏教を受け入れたとき祖先が感じた以上に呪わしい世界だったろうと想像できます。
 20世紀の日本浪漫派と呼ばれた人たち(といっても、保田與重郎しか知らないんですが)の夢見たのは、そのミクロ・コスモスとしての日本だったのです。それがすでにロマンにすぎない夢物語であることくらい、彼らにとっても自明のことでした。しかし、もし、それが夢でなくなるときが、もし来るとしたら、それは、近代日本が自壊するときなのです。これは、いわゆる「敗北の美学」などとは全く無縁の心性です。彼らは、「この世」が自壊するロマンを追い求めたのです。そのとき、「日本」というミクロ・コスモスが再度現成するかもしれないという暗くて切実なロマンに駆られたのです。ちょうど、彼らの祖先が、この世での死が、草葉の陰という小宇宙に還る契機となることを期待したように。
 草葉の陰のような小国。それは何というおとぎ話なのでしょう。(そして敗戦後の現実は当然のごとく、彼らの夢とは正反対の方向に進んでいきました。)しかし、そう考えた彼らにとって、天皇制はミクロ・コスモスを支える貴重な仕組みだったはずです。そして、その点だけは、今も日本が日本である唯一の根拠たりえているのかもしれません。「国体」は護持されたのでした。
 たしか、内田樹を読んでいたときに感じたのですが、大東亜共栄圏の各地に神社を建て、現地の人びとに皇居遙拝を強制した軍人や官僚たちは、上のミクロ・コスモスを反対方向に反映させようとしたのだと考えれば、一応筋は通ります。
 実は、ここまで考えたとき、ヨーロッパで起こったことも同じパターンではなかったのか、と思い始めたのです。ファシストたちが夢見た(そして日本より上手に、しかも強引にそれを実現しかけたために、より大きな惨禍をもたらした)同質の人びとだけによる精神主義的な世界とは、文明化以前のミクロ・コスモスをもう一度取りもどそうとする運動だったからこそ、ドイツだけでなく、イギリスにもフランスにもイタリアにも、そして南米にまで共感者が広がったのでしょう。さらに、反ファシスト的であった人で、今も人びとから敬愛されている人物は誰だろうと考えたとき、現在の、あらゆる場所にマーケットという名のジャンクヤードが出現しはじめている趨勢には、いつかまた揺り戻しが起こりそうな気がしてきます。あるいは、すでに起こりはじめているのかもしれません。
 われわれの中には、文明に対する、普遍主義に対する、根深い怨念と同時に、抑えがたい憧憬があります。みんながみんな一緒になれたら、どんなに楽かわかりません。が、同時に、家族とか、祖先とか、故郷とか、共同体とかいう言葉でしか言い表すことができなくなった、われわれを見捨てたミクロ・コスモスへの怨念と憧憬もまた、われわれの中に踞(うずくま)っているのではないでしょうか。
 私が図式化した西洋とは、地理的にも、時間的にも、あるいは心性的にも、実は西洋人にとっても特異なものだったのかもしれません。
         2010,1,30