1中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』を読む。〔4〕

GFへ

実はいま戸惑っている。
 中沢新一の言っていることが、そのまま自分には理解できている気がする。いや理解というよりは、それがそっくりそのまま自分にとっても当たり前のことにしか感じない。
 やっと、当たり前のことを当たり前に言う人物が現れた。
 ただし、その当たり前さを説明したり、証明したりする能力はが自分にはまったくない。それ以前に。他のことばに変換する能力も持ち合わせていない。
 つまり、これまで同様、ただ彼のことばを抜き書きするしかない。それもたぶん、肝心のところは飛ばしつづけながら。
 肝腎のところとは、種と個、そして類の関係なのだが、いま「関係」のまえに何か形容を加えようとしたのだが、その一語さえ思いつかない。
そのつもりで付き合ってほしい。

――「種」の多様体を突き動かしている微分状の力的契機が、「種」そのものを基体として成り立たせている
 構造的均衡を破って、みずからの内部への折れ込みを示すようにして襞を形成していくとき、「種」の否定性を肯定するものとして「個」があらわれるのだ。田邊元の「種の論理」は、このような「種」と「個」の相互媒介性の視点から、共同体や国家の問題を思考しようとしたものである。彼はこの思考によって、日本人の思考の陥りがちな共同体的な「自然存在論の主体なき基体の立場」と、すべての共同体的なるものを否定し、各個人の倫理的決意だけによって社会を構想しようとするところにたどり着く、近代の「人格存在論の基体なき主体の立場」の双方が落ち込んでしまうアポリアの乗り越えを、。模索したのである。
――「古代の自然存在論における主体なき基本体」の思考法は、いわゆる未開社会や古代の社会に限られたものではない。私たちは奇妙なことに、冷たい社会(「古代の自然存在論における主体なき基体」=未開の社会)に見出だされてきたものときわめて類似した、「自然を最終の基体とする」思考の実例を、現代のエコロジー運動や自然保護の運動に見出だすのだ。そこでは、「自然」なる概念は、技術はおろか思考さえ踏み込むことを許さない聖域のごとき結界に守られ、私たちを包摂する母性的なるもののイメージと重なり合うことによって、今日のイメージ化された世界の中で、強力な政治的機能を果たすようになっている。だが、「種の論理」はこのような思考とは、明確に一線を画する。
――無媒介な基体としての「自然」などというものは、幻想にすぎないのである。したがって、無媒介に技術や文明と対立する「自然」などというものはも実在しない。それはまだ基体ですらない。矛盾をはらむ多様体としての「種的基体」から、文字通りその力動的構造の現実化としての「個体」が生まれてくるように、「自然」なるものと外見上は対立するように見える思考や技術なども、その「自然」が内蔵する真実の「種的基体」(それは複雑な力動的多様体の姿をしていることであろう)の否定分裂性から、人間の脳と神経組織を媒介として現実化されたものにほかならない。私たちは、そのような「種」としての自然との間に、新たな関係を設立すべき時代を迎えている。「自然」なるものはない。そして、「自然‐文化」の対立を深めた「種の論理」的な新しい人類学がつくりだされなければならない。私たちに欠けていたものは、ここでも実践なのであった。
 さらに、「種の論理」は、近代を支えるエートスである「人格存在論」のさまざまな形態とも、一線を画する。これは「個」の主体の外に「種的基体」などは認めないという考え方に発しているが、田邊元はその考えが自然の質料性(矛盾をはらみながら未分化のままの源としての可能性)を否定するために、世界から生き生きとした存在の具体性を奪っていくことになる点に、注意をうながすのだ。         ――第5章――
 第6章では、西田哲学の読み直しがはじまる。


別件
生徒に卒業生の死を伝えた。
――いいか、お前たちが私より先に死んだりしたら、葬式にでていって棺桶をガバっと蹴たくってやるからな。
――万一のとき、先生には知らせないよう家族に言います。