中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』を読む。〔5〕

GF信へ

 偶然だが月命日になった、「大塚一敏先生を偲ぶ会」は無事終わった。しめっぽくならないようにと(亡くなった日にあった学年会の時、時枝先生が泣いているので尋ねてはじめて大塚先生の死を知った、と同級生から聞いた)西公園にある、海が見えてはればれするところに予約したのも多分成功。2時間半ほど色んな思い出話に会話が弾んだ。学生時代に林達夫先生が「座談会を成功させるには、大家の話を聞きだがる店子の役柄を演じる人間が必要だ」とおっしゃっていたが、今回、ついにWはみずからその店子に昇格したみたいだ。
――50年前のことをまるで昨日のことのように話すのが年寄りの特徴やな。
――はい、最近、大宅世継の話している様子が自然に思えてきました。
 今まで知らなかった話もまた出てきたが、それは別の機会に。
 

 第6章には「欲望としての西田哲学」という小題がつけられている。そのことについて、また引用を使って説明にかえたい。

――神話は意識の経験によっては到達不可能なものを、ひとつの実在として語りだそうとする表現であるために、「かのもの」や「霊の泉」(グノーシスの用語)の内部体験として、自覚の発生のプロセスを語ろうとする。ところが、哲学は、到達不可能なものは到達不可能としてしめそうとするところから誕生した、知性のかたちなのである。そういう哲学に、自覚の発生を内在的に語ることなどが、果たして可能なのだろうか。
 西田幾多郎は、それが可能である、と考えた。・・・・・ひとつの絶頂を究めた西田幾多郎の思考が、哲学の歴史におけるヘーゲル以来の「事件」だった(田邊元)というのは、けっして日本人の贔屓目だけとはいえない、ある種の真実を含んでいる、
 ヘーゲルは哲学を、歴史に向かって開くことによって、哲学に哲学ならざるものを持ち込んでしまったが、西田哲学はみずからを「欲望」に向かって開いたのである。それによって、彼の哲学は、はからずも精神分析学に接近することになり、西欧に展開されていた同時代の哲学が触れようとして触れることのできないリアルを、確実に哲学の内部に持ち込んだ。その意味で、西田哲学とは、文字通りの「異例者」なのだ。では、彼はどのようにしてそれを創造していったのか。それを探っていくと、私たちは日本の近代というもののはらんでいた、ある重要な側面があらわになっていくのを、目撃することになる。

 ==西田幾多郎フロイトの近接を説明するのに、中沢は「つぎの(西田の)文章に出てくる『意志』ということばを、『欲望』ということばに置き換えて読んでみろ」という。面倒だろうから指示通りに置き換えたかたちでまたびきする。==

――かかる意味(自己を、時空間的に限定すること―去勢を受け入れること―自分がひとつの「欠如」としてつくられたものであることを知ること―によってはじめて個は存在しはじめる)においてあるものの最後のものが欲望である。真の自覚は単なる知的自覚にあるのではなく、欲望的自覚にあるのである。働く自己にして始めて内容を有する自己と云うことができ、欲望することは真に自己自身を知ることである。欲望は自覚の極致ということができる。自覚的一般者においてある最後のものということができる。
 
 ==こういう文脈に「去勢」という語をみると、Wはつい、「セム人は去勢されなければ ならなかった」というエリー・フォールの謎のようなことばを思い出してしまう。==

 ==では、中沢には、いわゆる西欧哲学がどう見えているのか。==

――「基体(力動的矛盾にみちた母体―そこから露出してはみだす個体もその力動的矛盾をそっくりそのままはらんでいる)に媒介されない存在」という考えは、西欧的思考の秘められた欲望であり、城壁をめぐらせて外からの資料(基体―母体―野蛮―の内容)的撹乱の侵入を最小限に防ごうとして成立した都市の生活も、そこで暮らす市民と呼ばれる人々の意識のありかたも、近代になって大規模に組織化されるようになったこの欲望の現実化にほかならない。資料に動揺撹乱されず、媒介もされない存在とは、言ってみれば光のように透明であるといことだが、このような存在論は、光の明晰性のうちにあらわれでることを「真理」の意味であると考えた、ギリシャ哲学以来の西欧的思考の夢をあらわしている。

 ==これを書き写しながら、西欧人の前で「人間のなかにはカオスがある。そのカオス をどうすれば人工知能にうえつけることができるのか、いま私の研究は完全に行き詰まっている」と発言して、「科学者の使う言葉か!」と野次をとばされた若い日本人を思い出していた。==

――西田幾多郎が「哲学は我々の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と書く(「場所の自己限定としての意識作用)のは、彼がこのような事態の複雑さ(※自覚的一般者は、自覚への超越と引き換えに、自分がとてつもなく重大ななにか失ったことに、気づく。・・・・彼は(以後)他者がつくる世界の中で、疎外されたものとして、自分を形成していく。・・・・このとき、失われた根源的なかの「もの」が、抗しがたい力を持って、自覚的一般者に働きかけを開始する)を、正確に見抜いていたからにちがいない、と私は思う。彼の哲学は、主体が欲望として形成される、その原初の地点に立って建立されたものとして、「見ること」による去勢の事実(自己確認という名の自己限定)と、それにともなう根源的な喪失の感情を、内部に抱えこむものとして、かたちづくられている。欲望の哲学としての西田哲学。その主題は根源的なもモノ(母なるもの)への、深い欲望によってつき動かされながら、展開していく。
                             
 ==こうして話は必然的に「おいてある」ところである「原初の地点」へと移っていく。==

――「叡智的自己」という表現は、東洋思想的ないし宗教的なコンテキストだけで理解すべきものではない、と私(中沢)は思う。それは、とてつもなく現代的な問題に触れている。叡智的自己に「於いてある」超越(種―母胎―の超越としての個。個の超越としての類―国家―この三つは別々のところにあるのではない)は、こうして、私たちの前に、ひとつの巨大な主題を開いていくことになる。それが「場所」である。
――第6章――
 第7章の小題は、それだけでほれぼれする。
――「場所―の―なまえ」

 昨年夏、「哲学が文学であることを忘れていた西洋人」と書き送った。またもや自慢するが、Wはなんとも「あんぐりまんぐり」がいい。
                       2010/03/14

別件
 今日は昼から、グループ・ホーム開所一周年記念パーティー。得意のハーモニカを持って参加しよう。がその前に「永楽ぜんざい」に寄ってチャンポンで腹ごしらえ。あのチャンポンも、いつまでもはもう食えまい。