中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』を読む―6―

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先週からワクワクしていた第7章に入る。例によって、自分にとって厄介なところは省きながら書き抜く。

――「ティマイオス」を読みなおしてみると、プラトンという人が、概念的なことばのつくり方や使い方について、とても慎重で緻密な思考をしていたことに、いまさらならず驚かされる。そのうえ、この対話篇での主題は、いままでのような「国家」や「法律」などではなく、名づけることもできず、ロゴスの論理にもおさまらない、やっかいな相手なのである。ひとことで言えば、それは「数学的なもの」ではない相手である。
  ※それを西田幾多郎は「場所」と読んだらしい。
――仏教の言う「さとり」というのは、こいういう事態をさしている。さとったからと言って目の前にあった山が、無の中に消え去ってしまうわけではない。(さきほどの文章で言えば、)「一般と特殊が合一し自己同一となると云うことは、単に両者が一となるのではない。両面はどこまでも異なったものであって、ただ無限に相接近して行くのである。かくしてその極限に達するのである。」と言われるように、山はあいかわらず山として、そこにある。しかし、部分的欲望と意味(山についての部分的真理)が消滅してしまっている今、山はもはやかつての山でなくなり、無である述語面がそのまま主語として立ち上がる存在の純粋作用が、際限のない生産をおこなう「場所」そのものと化してしまう。それを、西田は「無の場所」と名づけた。
  ※Wがへたに注釈なぞつけないほうが却って分かりやすい気がす   る。上の部分に続けて、中沢は次のように言う。
――西田幾多郎が、同時代のアカデミズムの哲学者たちと決定的に異質だった点は、彼が日本語による哲学というものを、全体的真理について語る言説として、創造しようとしていたところにある、と私は思う。全体的真理といったものは、分析的な言説の内側におさまっているかぎりは、なんともいわく言いがたく、居心地の悪さを感じさせるもので、じっさい近代の哲学はそのような主題は形而上学に属するものとして、しだいに敬遠するようになっていたのである。ところが、西田幾多郎と田邊元の二人は、自分たちが創造しつつある哲学の言説に、全体的真理という主題を導入しようと、それぞれが違ったやり方で格闘していたのである。
  ※長くなるけど、もう少しそのまま抜き書きしていく。
――西欧で発達した哲学の伝統の中では、出発の時点からすでにの全体的真理のことが問題になっていたし、ユダヤ=キリスト教の神学では、存在である神はこの全体的真理のことにほかならないと考えられたのだから、その主題の扱いにかけては、なかなかに手慣れた伝統を形成してきた。ところが、日本と東洋の哲学では、全体的真理は存在ならぬ無とのかかわりで探究されてきたために、それをめぐる思考を、ひとつの体系として建築することは、とうてい不可能なことに思えたのだった。
 しかし、西田幾多郎は具体的な生命の事実から出発して、自分の哲学を築いてきた人であったので、生命には根源的な「否定性」が内蔵され、それが生命そのものをつき動かして、自覚や叡智に人を向かわせているということを、まぎれもない事実として理解していたのである。否定性とは「無」の別名である。そして、否定性によって、超越ということが可能になる。それならば、無へ向かうこの根源的な否定性に立って、全体的真理というものを、西欧における存在(有)の形而上学とは異質なものとして、語ることはできないだろうか。
  ※少しとばして、また抜き書きする。
――宗教は人間の意識におこる原初的抑圧の現場を自分のテリトリーとして、さまざまな言説を行おうとしてきた。この原初的抑圧の現場こそ、一と多のパラドックス、有限と無限のパラドックスシニフィアンの生成と無意識の抑圧など、およそ人間の意識にとっての重大事のすべてが生起する場所である。その場所を、宗教は自分のテリトリー(領土)として占有することによって、かくも長きにわたって(数万年にもわたって)歴史の展開に巨大な影響力を発揮してきた。
 原初的抑圧の現場では、私たちの意識を構造化するシニフィアンの体系をささえ、それが横すべりや動揺するのをおさえるために、「シニフィアンシニフィアン」とも言うべき、ある種の父性の隠喩が、重要な働きをおこなっている。宗教の中では、ユダヤ教がまっさきにこの隠喩の働きに着目して、原初的抑圧のおこなわれている場所を隠喩するものである「神」を、純粋な父性としてとりだそうとする試みを、不動の信念をもって実行に移してきたのである。もっともユダヤ教では、こうして発見された「父」はすぐに無限の奥へと隠れ去っていく性格を持っていた。キリスト教は「父」の持つこの遊動性を否定して、「父」に確固たる不動性を与えようとしてきた。、キリスト教においては、この「父」はシニフィアンシニフィアンとして、名前しか持たない。つまり、「父の名」という隠喩は、ユダヤ教を国際化した宗教であるキリスト教の世界においては、世界を確固たるものにするために、決定的な機能を果たしたのである。
 無限と無の概念が問題とするのは、この原初的抑圧の現場で起こっていることを、どのように理解し表現するか、ということにつきる。
  
  ※いつの間にか抜き書きは、第八章にまで進んでいた。第七章に   もどって本日は休憩にはいる。
――西田哲学の概念「場所」は、あきらかに「父」のものではい。・・・・純粋シニフィアンが存在の生殖をおこなっているというこの「無の場所」は、父ぬきでも、立派にやっていける能力をもっていると、そこにはみごとに語られている。父と子と精霊ではなく、父と母と子が、存在を産みだすのだ。概念の「場所」の核心がそこにある。(※最後は少し筆が滑りすぎた感がある)
  ※前回書いたように、第七章には「場所-の-名前」という、それだ   けでワクワクするような小題がつけられている。
   その「場所」にはさまざまな名がつけられている。「無精生殖   的母なるもの」「無」(西田幾多郎)。「コーラ」(プラト    ン)。「存在」「神」(ユダヤキリスト教)。Wがいつか使   おうと取っておいた「豊饒なる空」もまたその名のひとつかも   しれない。しかし、(という接続詞が正しいのかどうか知らな   いが)Wならこの章に、「場所―という―名前」とつけてみた   くなった。
 
別件
 夕方、チビたちを公園につれていった。もう桜が2〜3分咲きだった。小1かなと思う女の子がよってきて、
――この犬さわってもだいじょうぶ?
――うん。かみつかんよ。
 そうっとさわりつづけたあと、離れてから言った。
――なんでやろ? 手と足がふるえよる。
 今度は25日に来られるかもしれないと言い残して、彼女は走って帰っていった。
(ほんとうにまた会えあたらいいね。そのころはちょうど満開だよ)