中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』インターミッション

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エリー・フォールの言おうとしたことがやっとわかった。(たぶん)
セム人は去勢されなければならなかった」とは、「ユダヤ教は去勢されなければならなかった」、つまり、「ユダヤ教を去勢して人間に飼い慣らすことが可能なものにしたのがキリスト教だ」と考えていたのだ。高校の教科書に書かれていた「普遍化」とは、「去勢」のことだった。彼らの言う「文明」もそうだ。「存在とは去勢された非在」の「存在」も同様なのだ。
彼らにとって「存在」とは、「文明化された神」のことだ。
中沢新一を読んでいて、違和感がつきまとっていたのが、我々の文化にはない「去勢」だった。あれほど翻訳能力の高い彼がナマのことばをそのまま用いている。
が、事情はたぶんこうだ。あの人たちには互いに言わずもがなのことだから、下品にならないようにサラッと「去勢」ということばを使用して説明を省いているうちに、あの人たちのことばまで去勢されてしまった。中沢新一はそれを、ギリギリまでナマを、ーーーたとえば中沢はこの「なま」を「リアル」と書く。ーーーなまに近いかたちで届けようとする。
田邊元や西田幾太郎も、西欧人がしてきた研究室のなかでの実験みたいな思考ではない、「なま」をもとにしたほんものの思考をしようとしていた。
日本人はもともと抽象的な概念操作が苦手だ。そのぶん、具体的、具体的に考えるとき、驚くような能力を発揮する。その典型例をいま見ている気がする。

去勢の過程をショートカットして、なまのままで文明化しようとすること。それをカルトと呼ぶのかもしれない。が、その危うさ抜きの前進があるとも思えない。

どうやらまた、続きを読む準備ができたようだ。