中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』を読む。〔 7 〕

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 一月から読み継いできた『フィロソフィア・ヤポニカ』も大団円を迎えてしまった。なんだか、つまらない。で、「エピローグ」を読み残すことにした。
 「すぐれた小説は、読者が予想していたとおりの終わり方をする」と言ったのは誰だったか。・・・・正確にいうと、読者に「こうなると予想していた」と思わせる終わり方をするのだが、まったくもって、そのとおりの大団円だった。その大団円の部分は、長くなりすぎるからコピーを送ることにする。
 で、今日はそのコピーの予告編的なものとなる。

――西欧哲学の場合には、「有」と「同一性」の概念の、アプリオリな真理性のまわりに、諸概念が組み立てられてきた。「日本哲学」はその一点だけを否定する。なぜなら、それは東洋文化において「みんなが知っていること」と違っているからだ。ここでは・・・・「非有(無)」と、「非同一性(差異性)」の概念によらなければ、「みんな」が知っているこの存在世界の出来事と本質を、深々と思考することは不可能だ、と考えられてきたからである。
 「日本哲学」と呼ばれるものはこの「無」と「差異性」の概念だけを土台として、マテーシスの(※間違いのないはっきりしたことばで語る西欧型の)論理を創造しようとした。                                (第12章)
この少し前のところで中沢は「田邊元にとって概念は、ほかのすべてのすぐれた哲学者と同様に、すこしも抽象的なものでなく、もっとも具体的な生命をそなえたものであった。」と書いている。

 以下は、この大団円にいたる過程で、書き抜きたくなった部分。全体的脈絡との関係は気にしないでいく。

――西田幾多郎の哲学的思考は内在的な欲望と意志によって突き動かされている、きわめてダイナミックな本質をもっている。西田ほど、現実の非合理性や反価値的なものの力に敏感に反応していた哲学者もいないことを、田邊元はよく承知していたのである。その西田が「絶対の無によって見る」という立場を、自分の哲学の最終立脚点に据えてしまうとき、欲望と意志の哲学者である自らの本性を裏切って、その哲学は西欧の哲学者を呪縛し続けてきた「光(※明晰性=真理)の神学」の引力圏に引き込まれていってしまうのではないか、と田邊元は問いかけたのだ。(第9章)
――仏教思想は存在の完成をあらわす絶対無の自覚とそれに反する煩悩との差異を、還元不能なものとして取り扱っている。煩悩は覚醒した心から必然的に生み出されるものではなく(もしそうだとしたら、それは絶対無の自覚に煩悩は解消されてしまうだろう)、覚醒した心にいわば偶然的な客として訪れたもののようにして、到来するものとして、絶対的な異質性を保持し続けている。その意味では、仏教はグノーシス思想とも共通する、二元論的思考を潜在させている。ところが、このような東方的なグノーシス主義の思想との血みどろの闘いをへて確立されたキリスト教の正統思想では、「光の原理」が存在の全域を覆い尽くしていくようになるのだ。
 私はここで田邊元がまじめくさった顔をして、西田幾多郎の哲学的思考は見かけによらず意外と西欧的なつくりをしている、と皮肉っているような気さえする。(第9章)
――田邊元は述語論理がたどりつく究極の場所である「絶対無」の中にも、「無自身の中にあって無自身でないもの」を概念化することが必要であり、「絶対無によって見る」自覚の光だけによって、生命や実存を思考し記述することは不可能だと言おうとしている。無にも「自然」が必要なのだ。・・・・田邊元は、この当時の西田哲学の本質主義的な性格を批判して、質料的なものと抽象的なものがたがいを媒介しあうことによって運動するハイブリッドな内在平面に、哲学は立たなければならない、と宣言した。このときすでに彼は「種の論理」の哲学者として振る舞っていたのである。(第9章)

――すべての暗号は、たしかに「生きながら死人となりて生きるもの」である。・・・・しかし、暗号の背後には、明らかに同一性をそなえた意味の全体性が、ひかえている。ハイゼンベルクの思想のユニークさは、・・・・その背後から、同一性をそなえた対象物を顕在化させるのではなく、不確定なゆらぎをはらんだ物質的リアルの存在を浮上させたところにある、と田邊元は考えた。(第10章)
――これは、・・・・必然性に支配せられるものではなく、反対に偶然を認め、これにしたがって忍即愛の自由を享受するものでなければならない。・・・・どこまでも愛において自己を棄て去らんとする自力精進に努めながら、自覚の達成可能を信じ望みつつ、しかも不断に悔い改めて、絶対的交互愛の、時満ちて降り来るを待つ外ない。いわゆる「時熟(カイロス)」これである。これこそが偶然の積極的意味でなければならぬ。マラルメの詩人として無比ともいうべき徹底的思考力をもってしても、このかんぬきの向き更えに過ぎないかのごとくに見えるところの、自己否定的転換の偶然的時熟(カイロス)を待つこと、三十年でなければならなかったのである。(田邊元『マラルメ覚え書き』)
――モダンの世界の理念には、「忍」が決定的に欠如している。「忍」が欠如しているところには「愛」も生きない。その世界は、偶然をその全体として肯定することができないために、計画し、用意し、制御することによって、偶然を排除するさまざまな方策が、巧妙に実行されることになる。この偶然の排除の成果として、人間には安楽や安逸な暮らしが可能になる。田邊元はそれを人間の根源悪として、思考の全力をつくして否定しようと生きた。・・・・わたしたちはすべて、今もそしてこれから先も近代人であるから、近代の否定などが求められているのではなく、むしろ近代からの超出が考えられなければならないが、それはモダンの理念がみずからの内部に「挫折の自覚」を抱え込むことによってしか、開かれては来ない。(第10章)
――わたしたちはまだ一度たりと、十分にモダンであったことはないのである。(第10章)
――マラルメは虚空に向かって、サイコロをひと振りする。それは偶然を廃棄しない。・・・・サイコロのひと振りはモナドなのだ。(同)
――「父とは誰か。母とは誰か。子とはだれか。」というイエスの発したラジカルな問いを、哲学的に深めていったところに、このような個体概念(個体は個体でしかとらえることはできない。単子(モナド)に窓がないように、田邊的個体にも、外に向かって開かれた窓などはない。)は生まれる。イエスはここではっきりと親子の情愛を否定している。それは真実の愛ではない、と断言したのだ。(第11章)
――家族を越えた人間の協同性を発見しようという意志、悲哀を越えたところに愛の可能性を探ろうとする意志。このような非哲学的なものこそが、「哲学」として表現された田邊哲学よりも、その思考の核心にあるものである。・・・・真実はむしろ、哲学そのものよりもその前哲学、その非哲学のうちにこそ隠れている。しかも田邊元の場合、この非―哲学はひとつの意志をはらんでいる。(同)
――哲学者はいろいろな概念を創造する人間だが、そうした概念がそこにおかれるだけで、論理的整合性を越えて、たがいに共振をしはじめるような場所がある。そして、その場所は力強いひとつの全体性を備えている。西田幾多郎の創造しつつあった諸概念の向こうに、田邊元は自分の前哲学的直観のとらえているのととてもよく似た、ひとつの全体性、ひとつの大地の隆起を発見して、それこそが自分の思考のたどり着くべき唯一の場所である、と確信したのである。・・・・
 私は、西田哲学と田邊哲学という「日本哲学」をかたちづくる二つの高峰と言われてきたものが、じつはひとつの大地の隆起を共有していることを、語りたかったのである。・・・・西田哲学が完成を遂げ、田邊元の思考が成熟に向かうにつれて、しだいに両者の思考は接近を見せはじめる。そして、「場所の論理」を構成する諸概念と、「種の論理」を構成する諸概念とが、あるひとつの総体から生み出されてきたものであるかのような様相を見せはじめる。二人の哲学的思考がひとつの方向に収斂していき、そこにそれまで見えなかったひとつの大地が立ち上がるのだ。
 その隆起をもった直観の大地の名前を「絶対無」と言う。(第12章)
――「我々の人生観世界観」が「それ自身に独特な物の見方考え方」を備えていること、当然である。しかし、それを論理としていいあらわすことができるか、と西田幾多郎は問うているのである。日本文化がみずからの思想を、論理ではなく、小説や詩歌や芸術のかたちを通して表現してきたことはたしかであって、あきらかにそこには独特の構造をもった表現が実現されている。・・・・同一なものが反復するのではなく、有と非有の境で微妙に変化していく空間を造形することに、この文化はたいへんな精力を注いできた。
 ところが、論理の領域では、そんなふうに事を進めることはできないのである。・・・「我々」はそういう論理のほうに人生観世界観をむりに合わせようとはしなかったし、同一性を生み出す論理をそのものとして純粋化させ、発達させていくこともまずなかった。だから、そこには論理などというものがないようにすら、思われてきた。西田幾多郎や田邊元はそういうところに、論理による哲学なるものを、つくりだそうとしたのだ。(同)

  ※以上で抜き書きは終了する。エピローグは小題だけ書いておく。
   「非モダンの哲学へ」

 なんでこんなことをしてきたのかな、と今思う。
 たぶん、この本全体が、Wには「ふらう」的だったのだ。――たとえば、田邊元の「偶然的時熟」という語に出会ったとき、「ぬれそぼる山鳥の胸瞬間(とき)を待つ」がそのまま甦ってきた。――その「ふらう的」を中沢新一のことばに直すなら、バロック的ということになるのだろうか。
 40数年前、林達夫先生は、「ルネサンスを理解するためにはバロックから眺めるほうが分かりやすい」だろうから、と、まる1年「バロック論」を展開された。その中身は100パーセント忘れた。何ひとつ覚えていない。が、7年間のなかで、1年間ずっと皆勤したのは、その講義だけだったことだけ覚えている。だから、「顔は見なかったけど、手のぬくもり」だけは残っていたのかもしれない。
 書きたいことがたくさんある気がするけれど、本日これまで。
   2010/03/31