中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』補遺

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まだ余韻が残っている。
19才の頃、田邊元のアンソロジーを読んでひどく感動したことだけは覚えているけど、何が書いてあったかはまったく覚えていない、という話はだいぶ前にした。
その本には何が書いてあったのだろうと、『フィロソフィア・ヤポニカ』を読みながら考えていた。19才の頃に一応読めたのだから、そんなに難しいことではなかったはずなのだ。
いま思うに、それは次のようなことではなかったのだろうか。

我々は、自分たちが生まれ落ちたミクロコスモスを裏切ることで個となった。個・性を得た。個となっても、自分がミクロコスモス的なもので成り立っていること、いや、実はミクロコスモス的なものだけで成り立っていることを忘れるはずもない。かといって、いまさら自分が裏切ったミクロコスモスにまっすぐ逆戻りできもしない。
我々は、ミクロコスモスからできるだけ遠ざかりたい、という気持ちと、ミクロコスモスにできるだけ近づきたい、という気持ちとに引き裂かれはじめる。
そのことに気づいた我々は、何とかして自分たちで共同体を作ろうとする。その共同体をできるだけ、自分たちが裏切ったミクロコスモスに似せようとする。そして、その共同体の中で、個・性を失うことなく成員になろうとする。
しかし、その共同体の中で、個・性を発揮すればするほど、自分は裏切り者だという意識が強くなる。その意識を振り払って共同体に尽くしていくにつれ、我々は疲れはて、次第に「個・性」から「性」が抜け落ちていき、我々は、ただの個に戻りはじめる。
我々が個に戻りはじめると、共同体は次第に「全体・性」を帯びてくる。そして単なる個となった我々は、いつの間にか、「全体」を突き抜けて、いったん裏切ったはずのミクロコスモスに戻りはじめるのだ。

多分、世界中にある、青い鳥、の話です。

これは哲学じゃない。宗教でもない。それら以前の何かだ。
その「それら以前の何か」に、これまで何度逢着したのだろう。何回「発見」したのだろう。そのことが重なれば重なるほど、「それ」が貴重なもの、貴重なこと、貴重なところに思われてくる。
だとすると、これは、より「宗教以前の何か」であるらしい。いま、仮に、それを「シンタオ」と呼んでおきたいのだが、賛意を得られるだろうか。