IS氏へ 2009〜2010

IS氏へ

 「夢十夜」へのご招待ありがとうございました。おかげで昨年の夏以来ひさしぶりで漱石に再会できました。
 実は私はたぶん、昨年夏61歳にしてはじめて『草枕』を読みました。若いころ読んでいたのかもしれませんが、ほんとうに読んだと言える読みかたをしたのは、昨年がはじめてでした。そう自信を持って言えるのは、漱石観がまったく変わったからです。
 それまで私は、「漱石は小説家には向かない資質の人だったんじゃないか」と考えていました。でも、違いました。かれこそ小説家になるために生まれてきた人でした。
 私は、『猫』も『坊ちゃん』も知らず、高校の教科書でびっくりして突然『こころ』を読み、それからいわゆる前期三部作を読みました。そのまま途中をショートカットして『明暗』にたどりついたのです。それらの小説には息苦しさを覚えました。「こんなものを書いていたら血を吐くのは当たり前だ」と感じました。なにか肝心なものが欠けている気がしたのです。それを今の私の言葉に直すなら、「人間として生まれてきてよかった」と感じる何かですが、もちろんそのころは分かりませんでした。
 あとのことになりますが、明暗の構想を練っていたころの漱石の日記に、「こんなことをしていたら気が狂いそうだ。」という意味の記述を見つけ、やっぱりそうだったのか、と思いました。しかし、『明暗』を放棄する気なぞまったくなかったでしょう。もし、書きつづけなければ、精神のバランスを保っていられなかったはずです。漱石は命を削って小説を書いた人なのです。小説家には向かない資質だったんじゃないかという感想には、そういう意味もこもっています。小説というのは、も少しアバウトなところのある人が書くものだという気がするのです。
 しかし、『草枕』はちがっていました。自由で軽快で生命感に満ちています。人間だけでなく、鳥も植物もです。というか、そのことじたいがあの小説の大きなテーマである気がします。漱石の小説で最高の傑作は『草枕』です。まだ読んでいないものがたくさんあるはずですが、なんの躊躇もなく、そう断言します。それどころか、そのように感じた自分に誇りさえ覚えます。『草枕』は日本人が生んだ世界最高峰の文学、いや音楽だと思います。
 なのに、その後の漱石は、どうして窮屈な小説を書きはじめたのでしょうか? 
 それは多分、『草枕』的小説は、いわば南画的だと自分で思ったからだと思います。(別に私は特別な意見を述べているつもりはありません。こんなことは誰かがすでに言っています。)富岡鉄齋が自分を画家として認めたがらなかったように、漱石は『草枕』の自分を小説家として認められなかったのです。なぜならそれは、「近代小説」とは言えなかったから。──以前にも話した気がするのですが、漱石に課せられた国家的使命は、日本文学を「近代化」することでした。当時のヨーロッパの主流は、意識の流れ、を文章化することでした。かれは忠実に日本でもその新しい文学を創造、いや生産しようとしたのです。かれほどの人でも、文明開化を経て、欧米列強に追いつけ、の時代の性状から逃れることはできませんでした。それが、明治という時代なのだと思われます。
 しかし、一神教の世界に生まれた人たちには相当する意識の途切れない流れは、多神教の世界の人びとにとってはあまりにも不自然でした。かれの小説の登場人物たちに生活感が乏しくなるのは当然でした。「覚えていてください。私たちはこのように生きてきたのです。」と『こころ』の先生は書き遺しました。しかし、明治の日本人は、けっしてあのように生きはしなかったのです。

 第一話での時間のことでしたね。女が死んでから花が咲くまで、いったいどのくらいの時間が経ったのか。──あなたは、まだ百年は経っていないと考えました。私は、百年経ったのだと考えました。──そのちがいは、あの小説をどうみるか、のちがいによるのだと思います。あれは近代的な小説ではないのです。近代小説以前の小説だからあんなに魅力的なのです。近代以前では、時間は直線的には進みません。時間は伸縮します。時間は折り畳まれて、ほぼ永劫が一点に集積されさえします。
 思いっきりだらしない生き方をしていた学生時代のことです。ある酒盛りでひっくり返っていたとき、自分の呼吸がとても深く、楽になっているのに気づいて、そばの男に、「オレの手を一秒ごとにツンツンしてくれないか」と頼んだことがあります。」一回の呼吸で(酔っぱらった頭で数えたのが正しいとすれば)数十秒が経ちました。──こんな呼吸が数分で一回になり、数時間で一回になりしていき、一回の呼吸に無限大の時間を要するようになったときが、ブラフマンと一体になる時なんだな──酔っぱらいの妄想ですが、その妄想はインダス川ガンジス川にそのまま通じていたと思っています。
 小林秀雄が、「現代人には無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからだ」と言ったその「常なるもの」の一例が「時間」なのです。直線的な時計的時間はほんとうの時間ではなく、ただの機械の進行です。生命感とは無縁のものです。
 勢いで、近代以前は時間が一直線には進まず、伸縮し、折り畳まれる、と書きましたが、たぶん今、人々は改めてそう考えはじめているのではありませんか? そう考えないと解決のつかないことに、今、人類は遭遇しはじめているように見受けられます。
 あの時計的にはほんのわずかの時間が実は百年だったのです。「私」は、そのことに気づきました。気づいたとき、たぶん「私」はすでに意識だけになっていて、時計的時間流にいうならば、かれの姿はもう私たちには見えなくなっていたでしょう。・・・・第一話はそういう「夢」です。
 学生時代に、イギリスの、死刑になる前の数分に考えたことが全編である小説を読んだことがあります。あるいは、三年生にはこの四月、「邯鄲一炊の夢」を読ませました。生徒は、最後の段落に至って、「なん? 夢やったと!?」と騒然となりました。しかし、第一夜には、そういうオチはありません。ないから、実は、21世紀に通用する新しさ、原初であるからこそ生命感を失わないものがあるのだと思います。
 今回のお誘いに感謝します。
 『夢十夜』を読んでいるうちに、とんでもなく重要なことに気づきました。
 漱石の最高の小説は『草枕』です。しかし、かれの最高傑作は、たぶん小説ではありません。国家的使命として、また一方で生計の糧として書かれた小説以外にのものに、漱石のもっとも優れた作品があるはずです。
 私は、自分のこういうヤマカンに自分を賭けてきました。今回もそうします。退職後は、かれの全集をじっくり読みます。そこには、「人間として」だけでなく、「日本人として」うまれたことの幸運を喜ぶものが、きっとたくさんあります。そんな宝の山に気づかせてくれたことに、あらためて感謝して、今日は終わります。
                                                      2010.4.29

IS氏へ

 坂口安吾『教祖の文学』を机上に置いてくださり、ありがとうございました。

 坂口安吾は、尊敬している文学者の一人ですし、その何ごとに対しても正面からものを言おうとする態度は、痛々しさを覚えるくらいです。
 それに、私が大学入学前から、「卒論はこの人にする」と決めていた佐賀県出身の三好十郎にも小林秀雄にはげしく噛みついた文章(『恐怖の季節』所収)があります。逆に私淑していた方は「小林さん」と敬称をつけて彼のことを語っていました。あるいは個人的な面識があったのかもしれません。(その方が、「お前が三好十郎を好きだというのはいい。」とおっしゃったときはびっくりしました。マイナーな作家なので、読んでいらっしゃるとは思ってもいなかったのです。「あの人は文章が下手だろう? そこがいい。」人まねではない、自分の言葉で考えようとする三好の姿勢を評価していらっしゃったのだと思います。)そして現在の私にとって、たしか新潮から出ている小林秀雄の講演集CDは宝物のひとつです。

 「小林秀雄は心眼を狂はせるに妙を得た文章だ」について
 簡単にします。彼の文章は心眼を開かせる文章なのです。たとえば『無常といふこと』に「現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常といふことがわかっていない。常なるものを見失ったからである。」という言葉がありますが、その意味が50過ぎまでわかりませんでした。なぜかというと、文脈から考えて、彼の「常なるもの」とは「無常といふこと」になると考えたからです。
 その意味では「心眼を狂わせる」文章なのかもしれません。が、ある日、それは先ほどの講演CDで、全然別の話を聞いていた時なのですが、忽然と彼の言っていることがわかりました。私が、彼の言っていることは何か深遠なことなのだと思いこんでいたから迷いこんだだけでした。現代人が見失っている「常なるもの」とは、語義通りの「日常的なこと」「常識的なこと」「当たり前のこと」なのです。
 無常ということは、特別なものでも何でもありません。われわれの身に起こることはすべて、一回こっきりのことなのです。女性にとっては当然にすぎないそのことや、生まれた者は死ぬという常識的なことから、ある時突然昔つき合っていた異性の生々しい息づかいや声が甦ってくるという日常的なことや、目の前で話している人間のつまらなさを感じているときに、本でしか知らない過去の人物の確かな絶望感が自分を襲ってくるという当たり前のことを、われわれは「無常」と呼びます。(先ほど書いた、私淑していた方の言葉に「積極的無常」というのがあります。最近よくその言葉を咀嚼し直しています)
 「現代人は無常ということを、何か特別の高級なことと思いこんでいやしないか。そして知識人のつもりでいる男たちは、日常的なことは自分がわざわざ考えるに価しないことと思いこんで、当たり前のことにかかずらわっている女たちを見下していはしないか。てやんでぇ。そういう奴らは鎌倉時代の生女房の足の爪の垢でも煎じて呑むしかねぇぜ。」
 彼はそうケンカを売っているのです。それは本来、坂口安吾が切るべきタンカでした。が、純粋な(イノセントな、と言いたいくらいです)坂口は、まだどこかで「学問」の純粋さや芸術の尊さや権威に対する信仰をもっていました。彼にはなんらかの権威が必要だったのです。もっというと、かれは何かの信者になりたかったのです。(安吾はいまきっと天国にいます。小林は地獄にさえ行き場所はありません。)しかし、小林秀雄はいっさいの信者を受け付けません。当たり前のこと、常識の側に立ち続けようとする彼はけっして「教祖」にはなりようがないのです。彼を教祖にしたのは坂口安吾のほうでした。
 ものごととは、そういう具合に進んでいきます。
              ※つづきは、また、別の機会に。 
                     
                       2009/06/25


 若いころ、開高健が、「ヴァレリーは読まんがええぜ。ヴァレリーを読んだら小説が書けへんようになる。」と言ったことがある、と松永伍一(だったかな)が書いているのを読んで、感動したことがあります。感動した理由のひとつは、開高健という若者の直感力と決断力のすごさに対してだったと思いますし、あとひとつは、あの時代の人間にとって「小説を書く」ということには麻薬的な魅力があったのだ、ということに対してでした。
 たぶん、私たちの世代には小説の麻薬性はもうないと思います。しかしM先生が、引退なさる少しくらい前に、「小説を書きたい」とおっしゃったことがあって、わずか12年の世代の違いの大きさを感じたことがあります。
 開高健は文学をやりたかったのではなく、何より小説が書きたかったのです。それは単に「詩や戯曲では飯が食えない」というセッパつまった課題だけではなく、「小説」というものが無限の可能性をもっていると思えたからでした。(彼は精力を傾けてその可能性を現実のものとしつづけ、60歳まえで慌ただしくこの世を去っていきました。司馬遼太郎の弔辞は、「こんな理解者がひとりでもいたなら、開高も本望だろう」と思わせるものでした)
 「小説は19世紀で終わった。」という言葉が小林秀雄にあったということを初めて知って驚きました。なぜかというと、学生時代にヴァージニア・ウルフの「灯台へ」を読んだとき、似たような感慨をもったからです。それは「前世紀までは、ほんとうに超一流の知性が小説を書いていたんだなあ。」という形の感慨でしたが。
 小説のもっている(あるいは持っていた?)無限の可能性について、ナチスから逃れるためにアメリカに渡り、戦後は師であるハイデガーを救うために闘いをやめなかったユダヤ人のハンナ・アレントは「今日の世界はもはや学問では描ききれない。小説だけにその可能性が残っている。」という意味のことを言っています。すべてを論理的な言葉では表現できないことに気づいていたのです。(彼女は、ユダヤ人仲間からハイデガーをかばうことの危険性を忠告されたとき、「今の世界で人間そのものを理解している男がほかに誰かいるの?」と答えたそうです。)彼女の小説についての評価は、一時はやった全体小説を想定しているようにも思えますが、私はそうではなく、小説のもっている雑味への期待なのだと思っています。日常語のもっている雑味と言い直したほうが分かりやすいのでしょうか。そして坂口安吾はその小説を書く人間でした。
                                                    2009/6/27


 そろそろ「花の美しさというものはない」に入らなければならないのですが、も少し寄り道をします。まだ、その覚悟が定まらないのです。
 ハイデガーの理解者に木田元という人物がいます。かれの『ハイデガー存在と時間」の構築』(岩波現代文庫)は推理小説より推理小説的です。彼は旧制農業学校のとき「存在と時間」を読んで「原書で読みたい」という一心で東北大学を受験しました。(「何しろすさまじい訳だったのだが、この本には何か大切なことが書かれている、と直感したのだ。」と後に書いています)その彼は学者仲間とヨーロッパに出かけたとき、間に立つのを買って出た人物がいてハイデガーその人に会えそうになったのですが、「断ったので仲間から恨まれた」。人間に嫌みがあるし、第一、顔が嫌いだったとあります。小林秀雄が読んだら苦笑いしたことでしょう。それでも、ハイデガーは我々の心眼を開かせる言葉をもっています。もし、まだでしたら「ヒューマニズムについて」という薄い本(岩波文庫)をお勧めします。もっとも、私が読んだのは、それこそ、すさまじい訳でしたが。

 一昨日以来、偉そうなことばかり書いています。坂口は私に100倍する知性と感性をもっていましたが、ただひとつ私にあって彼にないものがありました。それは、時間、です。いわゆる無駄な時間です。私は小林の言葉に35年間迷い込んでいました。が、それがどんなに貴重な時間だったか、今あらためて思います。その35年間ずっと小林の言葉について考えていたわけでは勿論ありません。むしろその大半の時間には彼の存在自体も忘れていました。そんな時間が貴重なのです。「岡目八目」という言葉があります。物事を時間的距離をおいて、はるかに離れた所から思い出したとき、まるっきり違って見えるものがあるのです。
私が敬愛する画家の野見山暁治にフランス時代を回想した次のような文章があります。
 たまたま出会った80代後半と思える老人が、もっと長生きしたい、というので、若かった野見山はその理由を訊きます。老人が答えます。「だって、私は若い頃、自分が孤独だと思っていた。しかし、いま、宇宙の方がもっと孤独なんじゃないかと思うようになった。長生きしたらもっと他のことも分かるようになるかもしれないじゃないか。」私にはその老人の風貌がルオーのように見えます。そう書いた野見山暁治自身はその老人と同年齢になった今、「若い頃、人生は舞台だと思っていた。いま、それは楽屋裏なのだと思うようになった。」と書いています。
 ある書評に、詩人の長田弘が「詩を書くとは思い出すことだ」と書いている、というのであわてて購入したけどどこに書いてあるのか分からなかった、てなこともありました。
 ここで私が言いたいことは、時間が解決する、ということとは寧ろ逆のなのことです。

 なんだか、小林の言葉をなぞりはじめそうなので、ここらへんで話題を変えますが、坂口には、その時間がありませんでした。芥川にもありませんでした。もちろん、若者はその直感力で本質的なことをその究極まで見抜き、考え抜きます。しかし、そんな結論になんの価値があるのでしょう。絶望がわれわれのふるさとであるからどうだというのでしょう。(中学時代の私でさえ、オレたちは絶望するために生まれてきたんじゃないだろうか、と考えました。いまはその考えを正しいと思っています)それはただ当たり前のことにすぎません。それを無常といいます。わたしが『文学のふるさと』を好きなのは、ただひとこと、その最後に坂口が「しかし、ふるさとに還るのは大人の仕事ではない」とつけ加えているからです。
 かれには、わかっていたのです。(私がいつかもう一度坂口の小説を読み直すとするならば、それは、『風と光と二十の私と』です。これがあるから、坂口の世界には救いがあります。──いま思い出しました。四十年来の交友をつづけている男がいますが、そのきっかけは彼がモソっと『黒谷村』を好きだと言ったことでした。──ちょうど、中島敦に『光と風と夢』というおとぎ話があることで私たちの魂は救われるように)なのに、かれは「ふるさと」にこだわり続けます。理由はたぶん、小説を書く、ためでした。小説を書くということには媚薬以上の誘引力があったのです。

 学生時代、2級下で絵を描いていた男がいました。あるとき、壁に立てかけてある彼のデッサンをみて、「これ、色をつけるつもりか?」と訊くと、うなづきますので「やめとけ」と言いました。「色をつけたらだめになる」。私も少しだけ絵を描いていた時期があるので、下描きの上から色を塗りはじめて、がっかりした経験を何度もしました。驚いたのは、彼が私の忠告に従ったことです。たぶん、彼が描いた絵であの絵が唯一残っているのではないでしょうか。なぜならその絵は今、私の手元にあるからです。
 デッサンは、それだけで立派な作品だと思います。しかし、デッサンしか描かない人を世間は画家として認めたがりません。だから、素晴らしいデッサンを描いても、それだけで生活を成り立たせることは不可能です。
 小林も一時期は絵を描こうとしたようです。しかし、たぶん、彼にはその才能がありませんでした。絵の具という雑味をもった素材を使いこなせなかったのだと思います。かれは、その代わりに、デッサンだけで生活してゆくという、それまで誰もなしえなかった生き方をはじめました。いっぽう坂口は、下書き抜きで、直接キャンバスに絵の具を塗りつけていくような作家でした。その才能があったのです。と同時に、構想力や構成力のなさについての劣等感がつきまとっていました。(ちなみに、夏目漱石はしっかりとデッサンをし、それも、全体図だけでなく、画家のように部分部分もその細部まで書き上げ、その上、部分ごとに彩色を試みたあとで改めて書きはじめるという、まれにみる緻密で構想力にとんだ小説家でした。)
 坂口が小林にタンカを切っている様子をみると、「お前も小説を書いてみろ。」と噛みついているように思えます。色を塗ってみろ。デッサンだけなら、いい仕事はいくらでもできるんだ。しかし、オレたちの世界は色という雑味だらけで、まるで地獄のように混乱しているんだ。オレたち小説家の体をみてみろ、太宰も檀もオレも、体中絵の具だらけになのに、お前はきれいな手のままじゃないか。そして高見から偉そうにオレたちの絵から色を取り去って批評しやがる。そして、自分も作品を作っているポーズを取りやがる。そりゃインチキのペテン師がすることだろう。
 しかし、ヴァレリーは偉大なデッサン家でした。小林に10倍するデッサン力の持ち主でした。彼はデッサンをはじめる前に、自分の言葉から雑味(色)を除去するために、長い時間をかけました。そして、その長い時間をかけて晒しこんだ言葉で文章を書き始めました。その線はまるで、銅版画のように繊細でしなやかで、しかも強く、明快でした。「ヴァレリーは読まんほうがええぜ。ヴァレリーを読んだら小説が書けへんようになる。」しかし、世界にはヴァレリーにあこがれて小説を書くのをやめた若者が、小説家になろうとした者以上に多かったはずです。(念のために申し添えますが、怠け者の私はそのいずれでもありません)

 以前あなたが、「救いのないことが救いだ」について質問したことがありましたね。あのとき用意していた答えと、今はまた考えが変わりましたので書きます。
 坂口にとっては「救いのない」者だけが人間なのです。救いのある者はすでに聖人です。「オレたちは聖人なんかになりたいんじゃない。人間のままで生きて人間のままで死にたいんだ。」と言っているのです。荘子流にいうなら「尾を塗中に曳く」生き方こそもっとも人間らしい生き方です。その自由な、すべての責任を身ひとつに負う生き方にこそ救済のイメージはあります。そう考えるとき、彼には小林が「聖人君子」のポーズをとっているように見えてたのでしょう。しかし、ひょっとしたら、いや多分、小林のほうが人間的でした。人間として、あるいは男としての苦渋をたくさん嘗めていました。自分の汚さを骨身にしみて知っていました。ただ、彼は古い時代の人間でしたから、自分を他人に見せるなどということは、男のすることではないと思っていたはずです。だから、吉田兼好になぞらえて、「見えすぎることの狂おしさ」を語ったのです。
 自分がよごれているから、どうだというのでしょう。救いがないからどうだというのでしょう。汚れなさを失うのは成人するためには不可欠な「当たり前」のことにすぎないのです。その「かなしみ」を人は様々に表現してきました。「疾走する」かなしみ、もありました。ピエタもありました。日本人が仏教を受け入れたとき、われわれを「悲の器」にたとえた方を受け入れたのでした。興福寺阿修羅像を見るために人々が押しかけるのには確かな理由があります。しかし、その哀しみに色をつけようとするのは、小林にとっては子どもじみた行為にしか見えませんでした。(ミケランジェロは彫刻にこだわつづけました)その子供じみた人間の営為への、痛々しささえ覚える愛着は別の場所にしっかりとあり、その営為に彼なりのやり方で参加しようともしたのですが。

 白州正子は、骨董品の話をしているとき、小林たちのあいだで翻弄されて死んでいった女性について次のようなことを書いています。「骨董品は、彼らごく少数の人間のあいだを行ったり来たりしていただけだった。あの女性も同じだった。なぜ大岡昇平があの女性に手を出したのか。それは先輩のものだったからだ。先輩のものだったから欲しくなったのだ。」
 坂口にとって「地獄」は譬喩でしたが、小林にとっては現実でした。彼はその現実を生きたのです。だから、決して「地獄」というような言葉は使いませんでした。その代わりにただ「現実」と書きました。「現実が見えすぎることの狂おしさ」と書きました。現に生きている人間の怪しさについて語り、死んでしまった人間の確かさについて語りました。「死んでしまわないかぎり、オレたちは人間にもなれそうにないな。」と。

 私が言っていることは、要するに、小林と坂口は実はすぐ隣同士で生きていたのだ、ということのようです。だからこそ、坂口は小林にタンカを切りたくなるのです。だだをこねたくなるのです。「救いがないことが救いだ」という表現と、「常なるものを知らないから無常がわからないのだ」という表現は、まるで双子のように感じませんか?

 もとに戻ります。坂口は、それでも小林に、「はっきり物を言え。ごまかすな。」と言います。しかし、坂口が「言うに言われぬことを表現するためには小説しかない」と、それに賭けているように、小林もまたその「言うに言われぬこと」を表現しようとしているのです。坂口は絵の具で、小林は鉛筆で。・・・・もし、鉛筆のほうが「言うに言われぬこと」を表現しやすいのだとしたら、坂口も鉛筆を持てばいいのです。しかし、坂口は絵筆を捨てようなどとは思ったこともないでしょう。それは、小説という麻薬のせいだけではなく、言葉で説明できないことを書くのが自分の仕事だと信じているからです。鉛筆でも、表現しがたいことは表現しがたいのだと知っているからです。坂口は決して愚かでも卑怯者でもありませんでした。ただ、小林に対して、無いものねだりをしたくなるのです。なにか、「言うに言われぬこと」を小林が表現しているのではないか、と、自分に分からぬことを小林が言っているのではないかと、勝手に思っているのです。そうではなく、小林は小林なりに、ぎりぎりの表現を求めていただけでした。そうとしか言えない表現をしていただけでした。
 ただし、素描のみで生きていくには、やはり色気が必要です。鉛筆で表現された色気、それが彼の逆説なのだと思っています。
 前述の白州正子は、こうも書いています。「小林秀雄は骨董品に逃げた、という言い方をする人がいるが、それは違う。むしろ彼は骨董品によって目を開かれたのだ。それ以後、彼の文体が変わった。」小林秀雄が骨董品によって目を開かれたこと、それは多分、物には本物と偽物しかない、ということだと思います。真の本物以外はすべてただの偽物なのです。かれは本物になるしかありませんでした。本物になるために色気を捨てました。逆説を捨てました。そして、いったんは背を向けた学問と正面から向き合いました。本物になるためには「あたりまえ」のことを「あたりまえ」に書くしかありませんでした。かれの『本居宣長』を「壮大な無駄」と形容した人がいるそうですが、その人は、いわゆる小説などと比較して、文学という学問をそう形容したにすぎません。
 
「美しい花がある。花の美しさというものはない。」もまた、そのような小林の若かりしころの限界の言葉として読むべきです。
 最初のところで、「我々の身に起こることは一回こっきりのことばかりだ。」と書きました。それを無常というのだと書きました。それが本当に分かっているのは女だけだ、とも書きました。女はそれを知識として知っているのではなく、ただ、そのように生きるのです。
 Eさんが、レンブラントを第一の画家だというので、感心したことがあります。かれの絵の人物たちには確かさがあります。ひとりひとりの現実があります。ひとりひとりの中にそれぞれの個性的な時間があります。その時間は瞬間ではありません。濃縮されているのに継続している時間です。(それは、現在の私の生命観とも符合します。生命はいつか消えるから無常なのではありません。生命の常態が無常なのです。「無常」とは観念なのではなく、実態なのです。)と同時にそこには当たりの人間しかいません。当たり前のことしかありません。当たり前とは本物だということでもあります。(先日、河瀬直美の『萌の朱雀』を見て、息を呑んでしまいました。とんでもない才能が日本に生きています。彼女は吉本バナナや多和田葉子、今橋瑛子や庄司さやかと並ぶ傑物です。==庄司さやかに興味をもったきっかけは、彼女の音に日本人臭さがまったくない、という点でした。その後、彼女の音楽には個性がないことにとまどいました。そして、大材とはそのような存在だと気づきました。そして今、彼女が奏ではじめるはずのバッハは、まだ世界中で誰も聴いたことのない音になると確信しています。・・・・ついでに書きますが、私が34歳のときから聴き続けている加藤知子のバイオリンは逆に日本人そのものの音です。・・・・たぶん、日本には、ほかにも、男がかなわない女がたくさんたくさんいる気がします)金魚みたいに自分の過去をいつまでも長々と引きずって泳いでいる男なんて「ヘ」みたいなもんです。そんなことは、小林にも坂口にも嫌になるくらい分かっていたでしょう。
 小林秀雄は上述の言葉で、美学なるものを鼻で笑っているのです。「美とは何か」などということを雑味の混じっていない学問的なことばで追求しているらしい学者先生をバカにしているのです。(ただし、漱石はその「美とは何か」を真剣に考えたフシがあります。そして、その「美」にもとづいて、あの数々の傑作をものにしているのです。明治の近代化には、そんな凄まじいところがあります。・・・・漱石は、「文学を近代化する」使命を担ってイギリスに国費留学させられたのです。・・・・と同時に、下書きなしに本物の生きた文学をものにする正岡子規に敬愛を惜しまなかった漱石という人物は鴎外とは出来が違ったな、と感じます。)
 ずいぶん前になりますが、テレビで高山植物の特集をみたことがあります。そのなかで、たしか、ハクサンキスゲを紹介している女性がいました。ハクサンキスゲは高山の岩壁にのみ生息しているのだそうです。ですから、めったにその花をみることはできません。その妙齢と思える女性は、毎年、そのハクサンキスゲの花に会うために登山をつづけ、「会えたときはドキドキします。」と語っていました。
 我々は美しい花に出会ってはっとします。(残念ながら私はもう心臓に苔が生えて、ドキドキしなくなりました。花に会ってドキドキもしない男が無常についてゴタクを並べるなぞ噴飯ものです。女はそんな男をほったらかして、ただ花を愛でます。──私の父は、今思えばそのころもう認知症がでていたのでしょうが、自分の育てた花の絵を何枚も何枚も描いていました。私には全部おなじ絵に見えるのですが、「どっか違う」といって納得せずまた最初から描き直すのです。結局、花の時期がすぎ、絵は完成しないままに終わりました。あのころすでに父は、無常ということばを知らないままに、無常を生きていました。)われわれは舞台や役者にうっとりし、現実を忘れます。しかし、その花から、純粋な美そのものを抽出しようとした瞬間、花は死にます。人間も死にます。それは、光合成によって成長した植物から光を抽出しようとすることよりもっと愚かなことです。もし、「花の美しさ」というものがあるのだとしたら、枯れた花に「花の美しさ」を注入すれば、その花は永久に凍結した瑞々しさでありつづけねばなりません。しかし、そんな「救い」が花にとって何になるのでしょうか?
 つまり、この言葉は、本来、坂口安吾が口にするほうがふさわしい言葉だったはずなのです。なのに、彼はただ苛立ちました。無意識のうちに女たちが、人生の実質を獲得するため言葉にせずにさらっと捨てる「言わずもがな」のことを言語化しようとし、「書かめやも」と歯ぎしりしていたのです。なぜかというと、若すぎたのです。彼にはムダな時間がなさすぎたのです。忘れることを知らなさすぎたのです。小林に何かもっと深遠な、気高いことを期待していたのです。(もし、マルグりット・デュラス『24時間の情事』==アラン・レネ監督==をまだ観ていらっしゃらなかったら是非お勧めします。彼女は、私のいう一回こっきり、を説明するのではなく見事に表現しきっています。原作の『ヒロシマ・私の恋人』==清岡卓行訳==は筑摩書房から出ています)
 小林の中年以降の関心が時間そのものに向かい、さらに学問そのものに向かっていったのは必然的なことでした。

 が、今はもう二人ともこの世の人ではありません。現実をはいずり回っているのはわれわれです。その現実は彼らの時代と比べて決して安易なものではありません。もう雑味のこもった日常語で表現するにはわれわれの現実は複雑になりすぎています。
 それなのに、われわれは多分これからも、一回こっきりのことにこだわりつづけていくでしょう。なぜなら、自分が男であることの証がほかには見つからないと感じるからです。救いようがないことの救いをやっぱり欲しがるからです。その「男」を、わざわざ「人間」と呼びたがるのは、男の大人げなさだと女たちは見過ごしてくれるはずです。

 今、われわれが取り戻すべきは、ほんとうの意味での学問なのではないでしょうか。時間をかけて晒しこまれたことばによって行われる、部分がそのまま全体を表すような学問なのではないでしょうか。わたしはきたるべき文学にもまたそんなイメージを抱いています。
                      2009/6/28