つじつま合わせはストーリーではない

GFへ

 このごろテレビドラマをまったく見なくなってしまった。ひとつには目が弱ってきて、仕事から帰ってきたらもう目をあけているのがつらい、ということもある。しかし、NHKhなどはつけたくなるのだから、何も見ていない、というわけでもない。
 理由ははっきりしていて、要するに面白くないからだ、ということは分かっている。問題は、なぜ面白くないのか、にあった。それは、「話のすじが通りすぎている」かららしい。
 われわれの人生というのは、断片の寄せ集めにすぎない。その断片のつじつま合わせにやっと馴れてきて、いまの落ち着きがある。それまでは、ほとんどムチャクチャだった。断片と断片がギチギチ立てている音が聞こえてきていた。自分の記憶が悲鳴をあげていた。
だから、何かに夢中になっているときだけが楽だった。
 デュラスの小説を読んでやっつけられたのは、そういうつじつま合わせが全くなかったからだ。断片が断片のままに投げ出されている。それでいて、そこには紛れもない個性をもった人間がいる。その人間には立体感があり、やたらと生々しい。「これが本当なのかもしれない」
 デュラス以前には、モームの小説にもやっつけられた。それまで何かを読んでいるときは、登場人物のなかの誰かに身をよせながら読んだ。ところが、モームのときは、そのなかの誰にも肩入れできない。それだけで、けっこう辛かった。読み終わったときの充足感も味わえない。高校卒業後、マーロン・ブラントの『欲望という名の電車』を見たときにも、似たことを感じた。
 いまテレビであっているドラマは、たぶん(見ていなくて言うのは何だけど)登場人物一人ひとりが全部理解できるようになっているのではないか。だから、つまらなさすぎる、のではないか。ひょっとしたら、世の中の人たち自体が、テレビドラマの登場人物のように分かりやすくなっているのかもしれない。
 モーツアルトのレクイエムを毎晩のように聴いていた時期があった。いま思えば、あのころ、バラバラになりかけている自分を何とかひとつのまとまりに繋ぎとめようとしていたのだ。それには、あの、ふいに曲想が変わり、いくつもの相が重なり合い、突如として終末にいたる音楽が必要だった。・・・・聴いていて、だんだん終末が近づいてくるのが恐かった。終わってしまうのが恐かった。「終わらないでくれ」「終わらないでくれ」と祈りながらやっぱり聴いていた。
 さりげなく、われわれの日常にちかい、つじつまの合わないドラマをつくる人は、もういないのだろうか。つじつまが合っていないのに、同じ人間であることを感じさせる演技ができる人はもういないのだろうか。そういう折り重なった人格を感じさせる人と、この前あったのはいつだったろうか。

別件
 例のダブっていた生徒の進級がきまった。廊下で出会ったので声をかけた。しらんぷりをして通り過ぎ、だいぶ離れてから急に振り返って、何度も投げキッスをしてみせた。
あれは、彼の自主独立宣言なのだと思う。これからは廊下ですれ違っても気づかないふりをしよう。