若者よ、円高をめざせ。

2010読書教材より

 65年前の話である。日本が戦争に負ける前、1円にどれくらいの価値があったのか知らないので、それは日本史の先生に聞いてほしいが、中国やアメリカとの戦争に負けたあと、日本ではすさまじいインフレが起こった。円が暴落したのだ。月給が決まっているサラリーマンの家庭はインフレに弱い。食べ物の値段は毎日のように上がっていくのに、給料は一ヶ月後にしか上がらない。しかし、それ以上に大変だったのは、働き手を失った数百万の家庭だった。中には生命保険に入っていた人もいるが、インフレが始まったために、本来なら(今のお金に直して)数千万円の保険金を受け取れたはずの遺族が受け取ったお金は、数十万円の価値しかなくなってしまった。敗戦後、日本人はそこからもう一度やり直すしかなかった。(インフレの恐ろしさは、君たちも警戒しておいたほうがいい。)
 Wが子どものころ、日本円は1ドルが360円くらいした。そのころわが家にあった電化製品といったら、電球のほかには真空管ラジオしかなかった。それでも、ラジオが家にある家庭は、Wの町では半分くらいしかなかったようい思う。だから、新聞をとっている家庭も少なかった。
 今と60年前とで一番違うと感じるのは情報量だ。Wが子供どものころは、家にラジオもテレビもなく、社会的情報といったら口コミの噂のことだった人のほうが多かったように感じる。日本が無謀な戦争に突入した大きな原因もそこにある。
 たいていの家庭が新聞を購読するようになったのは、テレビが普及してからだ。テレビを買った家は、その日の番組を知りたくて新聞を購入するようになった。不思議なことに、一昔前ラジオがなくても平気だった人たちも、テレビは無理してでも手に入れたくなった。テレビはそれだけ魅力的な情報源であり、娯楽ツールだったのだろう。その代わり、テレビが普及すると、それまで娯楽の王様だった映画が一気に廃れて、「こんぱる館」も、「永楽館」も、「穂波館」も、「天竜館」も次々になくなっていった。
 その後、円はどんどん高くなり、20年ほど前には1ドルが90円くらいになり、今もその状態が続いている。つまり円は50年前に比べていま4倍になっている。それが、そのまま4倍とはいかなくても、日本が豊かになったということだとWは考えている。
 その円が4倍に値上がりする間に、Wの家では、薪やまめ炭がガスにかわり、木炭火鉢が灯油のストーブになり、電球が蛍光灯になり、居間に電気コタツが備えつけられ、各自の布団には電気アンカがつながれ、テレビが登場し、電気洗濯機が運びこまれ、冷蔵庫まで現れた。(エアコンと車はもっとあとのことだったけど)それが「豊かになる」ということだった。――田舎の親戚ではその間に、釣瓶で汲んでいた井戸がポンプ式になり(便利になったけど、おかげでスイカを冷やすことができなくなった)、さらに水道が引かれた。――テレビでみたアメリカの豊かさびっくりした日本人は「クソッ」と奮起して、「アメリカに追いつけ、アメリカを追いこせ」と頑張ったのだ。
 アメリカを追いこすなんて、バカな夢を見たんだなあ、と思う者もいるかもしれないけれど、実は20数年前、一時的だが、日本人の個人所得がアメリカ人の個人所得を追い抜いたこともあった。ちょっと無理しすぎた日本はその後、長い低迷期が続いているけど、そろそろまた気合いを入れ直すべきときを迎えている。君たちが社会に出るときはちょうど、「いざ、決戦のとき」なのだ。目標は、日本という国がではなく、日本人ひとりひとりが世界一豊かになること。それは決して不可能なことではない。(次回につづく)

 日本円が4倍に値上がりするのに最も貢献したのはブルーカラー(おもに、制服を着て働く職種)の人たちだった。もちろんホワイトカラー(スーツを着こなして働く職種)の人たちも、当時「企業戦士」と呼ばれるほどに働きまくった。だけど、世界一信頼性の高い鉄鋼製品や、「積載規準量の2倍積んでも平気なトヨタ」(トラックの別称)や、「ガソリンが切れても走るホンダ」(バイクの別称)や、アメリカの企業を「もうやぁめた」と廃業に追い込んだ家電製品などを作り、技術力の高さで世界を圧倒したのはブルーカラーたちの努力によるところが大きい。彼らは、世界一、世界初の製品を作っていることに誇りをもって働き、その対価を胸を張ってうけとっていた。
 そうなる少し前のことだが、テレビで「技能オリンピック」の様子を見たことがある。「技能オリンピック」とは、名前のとおり、世界中から技術者の卵たちが集合し、その技術を競う大会だ。その年は、日本が金メダル獲得数で他国を圧倒した。
 そのなかで、ふたりの若者のことを覚えている。ひとりは、他の出場者がみな製品をつくりはじめているのに、いつまでも紙に何かを書きつづけている。実は、会場で出合った機械は旧型で、コンピューター制御の機械しか使っていない日本の技術者の卵にとっては、工業高校時代の基礎勉強と同じことをやり直さなければいけなかったのだ。・・・・彼は、紙を使って、ひたすら計算した。日本の最先端の工場ならコンピューターがする計算を自分でやりつづけた。そして、やっと仕事にかかったときは、持ち時間がすでに半分以下になっていた。なのに、仕事を終えたのは一番早かったし、製品の完成度もいちばん高かった。
 もうひとりの金メダリストの場合はもっと劇的だった。かれもまた、ひたすら計算をつづけていた。持ち時間が半分過ぎてもまだ計算していた。そして黙って手を挙げて、試験官とアイコンタクトをとり、近づいてきた試験官に言った。「これは問題が間違っている。この問題では、ひとつのまとまった形のものはできない。」・・・・びっくりした試験官たちが集まって問題を再検討して伝えた。「君が正しい。私たちの作った問題がまちがっていた。」仕事に取りかかる前に、自分に与えられた仕事がは何かを確認しようとした日本の若者には金メダル。銀と銅メダルはなし。ということになった。
 日本の技術者の水準の高さを強烈に世界にアピールする結果になった大会だった。
 そうして、日本の円は4倍に値上がりし、日本人の個人所得は(一時的だが)アメリカを抜いて世界一になった。
 その恩恵をもっとも受けたのもブルーカラーの人たちだった。最初に書いた、Wが子どものとき、家にラジオがなく新聞も購読していなかった家庭の子供たちだったのではないだろうか。
 彼らは、親にお金がないために高卒で働く生き方を選んだ。(もちろん、高校にも行かず、15歳で就職した人たちもたくさんいた。)そして、がんばって、やっと少しはまともな給料になったと思ったころ、高校時代に遊びほうけていた奴らが大学を卒業し、ホワイトカラーとして入社してきた。
 ブルーカラーたちは、負けん気に火がついてがんばり、子供たちの尻をひっぱたいて大学に行かせた。「学費のことなら心配するな。父ちゃんが何とかしてやるけん。」
 映画館がなくなった町から、今度は、商業高校や工業高校などの実業高校が姿を消していった。(次回につづく)

 大学を出たブルーカラーの息子たちはホワイトカラーの道を選び、日本の技術力は韓国に並ばれ、中国にも追いつかれかけている。それは、ある程度必然的なことだったと思う。もう韓国でも同じ現象が起きているし、中国でも「ホワイトカラーじゃないと嫌だ。」という、就職浪人がふえはじめている。
 さまざまの予測によると、今年中に日本はGDPで中国に追い抜かれるらしい。それどころか、しばらくすると韓国にも追い抜かれると、アメリカのシンクタンクが予想している。あっちのシンクタンクは、けっこう優秀だから、本当にそんなときが、もうすぐ来るのかもしれない。
 だが、何も悲観する必要はない。君たちが一番意識しなければいけないのは国家の経済規模ではなく、君たち自身の経済規模、つまり個人所得だ、相対的なGDPでは負けても、日本人ひとりひとりが豊かになればそれでいいのだ。
 「そんなうまい話があるもんか」と思った者も多いとは思う。でも、ある。簡単じゃないけど、ある。単純な目標をたてればいいんだ。
 もし10年後、円が1ドル80円になったら、日本人は今より8分の9倍(1.125倍)豊かになっている。もし30年後、1ドルが60円になっていたら、(Wはもうこの世にいないだろうけど)君たちは今より6分の9倍(1.5倍)豊かになっている。目標はシンプルなほうがいい。「俺たちは、50歳前には、今より1.5倍リッチになっとるぞ。」と、シンプルな目標に向かってみよう。
 日本の技術力はまだまだ世界で幅をきかせている。現にアメリカでは、トヨタや日産やホンダに「ウチに来てくれ」とラブコールしている町がたくさんあるらしい。・・・・君たちの先輩のなかには、新しい工場に機械を据えつける会社に就職して、「ちょっと行ってくれ。」とアメリカに出張させられたきり、5年ちかく帰って来られない者がいる。次々に日本の工場が進出しているのだ。「お陰で日本に残したガールフレンドには見はなされるし」とぼやいているが、「でも、すべての機械をすえつけ終わって、試運転したとき、工場全体が計画どおりに動き出したらやっぱり感動しますよ。」と言う。きっとそのとおりだろうな。
 なかには、「1.5倍金持ちになったからって、1.5倍幸福になれるわけじゃあるまい。」と思った者もいるだろう。そのとおりだ。でも、6分の9倍リッチになっても、生活水準を今のままにしていたら、君たちの親より働く時間が3分の2ですむことになる。それを年数に直したら、親より14年も早く「自分の生きたいように生きる」生活を始めることができる。その時間をどうやって充実させるかは各自の工夫と努力次第だ。
 実際に、Wが学生のころ、アメリカでは、夫婦で交代しながら働いて、交代しながら大学で好きな勉強だけをしているカップルがけっこういる、という話を聞いて、「しゃれとるなぁ」と少しうらやましかった。
 スーツをびしっと着こなして、ホワイトカラーをやるのもカッコイイかもしれない。ただ、そういう生き方はストレスがたまりやすい気がする。Wは、この次人間に生まれたときは、自分の手で物に触りながら働く生き方をしたい。そのほうが充足感がある。
 将来、君たちのなかから、「プライドを持ったブルーカラー」が誕生していくことを夢見つつ、もうひとがんばりするつもりです。
 なお、Wが今やっている仕事はホワイトカラーでもブルーカラーでもない。その中間である。スーツを着たままで腕まくりをして、グショグショ汗をかく働き方が大いに気に入っている。それに、物にはあんまり触れないけど、人間にいっぱい触れるしね。(終)


別件
 去年のったタクシーの運転手さんの問わず語り
 「最近、おふくろが死んで、また嫁とふたり暮らしにもどりました。
 アタシは中学校を卒業したらすぐ大阪に出てですな。働きましたタイ。働いて、毎月お袋に送金しました。ボーナスも半分は送金しました。ボーナスちゅうてもですな、ほんのちょっとやったから、半分送ったらですな、もう、福岡まで往復する金も残らんでですな、盆も正月も大阪でひとりでごろごろしとりましたタイ。その金を、お袋は何に使いよったち思いますな? 兄貴の学費になりよったとですバイ。お袋は兄貴びいきでしてな。アタシの送金した金を全部兄貴につっこみよったとですタイ。ばってんが、ちゃんと学校をでた兄貴は、ちゃんとしたところに就職して、もう家には寄りつかんです。しょんなかけん、アタシと嫁が家にもどってですな、子育てをしながらお袋の面倒をみました。ところがですタイ、お袋は、アタシたちの悪口ばっかり兄貴に吹き込んでですな。兄貴もそれを信じて、・・・ひどいもんですタイ。
 葬式のあともですな、もうケンカですタイ。あげくに、兄貴は何ち言うたと思いますか? おまえは大阪で遊んでばっかりおって、盆も正月も帰って来ざったやんか、ちいうとですバイ。もう、腹がたってですな。「二度とこの家の敷居はまたがん」ちいうて出ていきました。
 嫁は、「これで、縁が切れたとやから、もういいやんね。」ち言います。アタシもセイセイしましたタイ。ばってんが、なぁんか、さみしゅうしてですなあ。