非情といふこと

GFへ

 また、C・フランクを聴いている。
 フランクの音楽は、音楽だけでつくられている。それ以外の夾雑物がいっさいないことの爽快感が聴く者をワクワクさせる。じゃ、その夾雑物とは何だ?
 それを考えていた。
 ストーリー? 論理? メッセージ? 意味?
 どれも正しく、しかし、必要十分条件にならない。
 感情だ。感情が含まれていないのだ。心情が捨象されているのだ。だから爽快なのだ。フランクの音楽は非情なのだ。
 と、そこまできて、たしか漱石にそのことばがあったのを思いだす。その意味をいま体感している。(すでに1000年前から使われていた気がするが、それはまた別の機会に)
 意味のない世界、非情の世界とは、なにかが充溢している世界だ。――その「なにか」もまた別の機会に後回し。ただ、こう言いながら、須田剋太のあの壁画のように巨大な抽象画を思い出していた。以前、「抽象画なのではなくて捨象画なのだ」といったあのマグマのような絵だ。――そんなことくらい昔から人はちゃんと知っていた。われわれも若いころから知っていた。カルメン・マキが「空へ!」と声を発したとき、われわれはその非情なるものへ己を吸い込ませようとしていたのだ。

いけない。こんなことを考えていると、またもやあの感情が蘇ってきそうだ。くわばらくわばら。

別件
「明暗」を準備しているとき漱石が、「気が狂いそうだ」と書いている、ということを前に報告した。が、ずっと勘違いしていた。彼は、「明暗」を書こうとして、気が狂いそうになったのではない。気が狂いそうだったから「明暗」を書くしかなかったのだ。