『熊から王へ』について

GFへ

 「カイエ・ソバージュ」第ニ巻を読み終えて、なにか満足感があって、一息いれています。
 「熊から王へ」で語られていることは、自然霊の具現であった熊から首長をへて、権力社会(王)が生まれてきた過程の物語なのだが、いかにもそうであったろうと思われる記述になっている。ただ、自分が満足感のようなものを味わったのは、たぶん次の二つ理由によると感じる。
 ひとつめは、折口信夫が登場してきたことだ。かれの本はまだほとんど読んでいない。ただ、何10年前になるのか結婚したとき、金澤が「お祝いは何がいいか」と言ってきたので、即座に当時刊行されていた中公文庫の折口信夫全集を頼んだ。「ええ!?」と電話口で声をあげたが、本当に送ってきてくれた。ただし、そのとき読みたかった一巻だけがなかった。同じようなことを考える者は多くて、その巻だけが品切れになっていたのだだろう。何年か前、Amazonのことを知って、すこし割高だったが今は全巻揃えている。ただし、まだほとんど開いてもいない。が、なにも慌てない。長谷川りん二郎じゃないが、時間は永遠にある。折口信夫を読みたいのは、そういう次元での話なのだ。何かを彼から教わろうなどという下心は毛頭ない。
 たとえば、昨年末の旅行中に、ホトケの語源のことを言った。奇想天外に聞こえたかもしれないが、折口信夫だったら「やっと気づいたの?」と言いそうな気がする。学生時代になにかを読んでいて、「この人は確信をもって言っている。」と感じた。そして、言っている内容よりもその確信のよってくる所を知りたかった。だから折口信夫を読むときは、なにかを教わろうとしてではなく読むために、いまはその「確信のよってくる所」をまず自分なりに探っている時間帯なのだと思う。その「時間帯」はすでに40年以上になっているわけで、自分のしつこさには呆れるだけだが、かれをチャンと読みはじめるのは、まだまだ先のことだ。それにしても、金澤の友情には感謝している。
 金澤が送ってきた折口信夫全集、足立が送ってきたかれの最高傑作、人生の宝物はほかにもたくさんありそうな気がする。

 ――別件になるが、昨日、職場の大先輩から俳句集を送ってきた。「ふらう」のお返しのつもりらしい。二年ほど前、「ぎこばた」をいちばん面白がってくれたんじゃないかと感じたひとだ。
 本人に言わせると、体が動きにくくなったので退職後しばらくたってから始めた、その俳句がいい。二人分もねだろうかと思っているから期待してください。

 あとひとつは、文中には一語も出ていないが、あきらかに天皇制を念頭において書かれていることだ。
 20年ほど前になるのか、もう忘れたが、何かのきっかけがあって、(たいていそんなことから「書かねばならぬ」と行動をおこす。たとえば、『仏教講座』は地下鉄サリン事件が起こり、宗教はこわいという風潮が職員室中に蔓延しているのを感じたところから始まった。このブログは民主党政権への危機感がはじめさせた。――だってあのとき、冗談じゃなしに、「昔、アカと呼ばれていた人たちこんな気分を味わっていたんだろうな」と感じる孤独感を味わった。そのくらいの興奮が教員というインテリ集団にあった。ただし、その興奮は、未来への希望によるというよりは、「いい気味だ」「溜飲がさがった」という感じだったし、シラけるほど呆気なく冷めてしまったが。――そうは言うものの、一億二千万以上いる日本人のなかでいちばん大嫌いな(かれらに共通しているのは、当事者を傷つけることに躊躇がない点だ。たぶんあの人たちには当事者一人ひとりが人間には見えていまい。なんだか、テレビゲーム感覚で政治が行われている。いや、多分最新版のテレビゲームのほうがもっと重層性を持ち合わせているんじゃないか。)菅直人の政権が長続きするほうが日本のためになるのかもしれない、と思いつつある。もうこうなったら、「鼠をとる猫がいい猫」だと思うしかない。いまの自民党には、鼠をとる意志自体がなさそうだ。

※この部分は、だいぶ手前の、「20年くらいまえになるか」に続いております。
 20年くらい前になるか、『日本の誕生』という文章を生徒向けに書こうと思った。が、いまだに題名だけだ。書きたいことは単純で、――日本という国は天皇制ができたときに生まれたんだよ。――言いたいことはそれだけだった。
 いまはもう口でその話をしている。生徒はけっこうおもしろがって聞く。自分の話がどの程度の精度をもっているのかは知らない。例によってマユツバものだろう。がそんなことは気にしない。大切なことは、彼らが「天皇制」というマカフシギなものについて何がしかのイメージをもつことだ。イメージなしの概念なぞウンコ以下だ。
 そのイメージをいちばん持ってほしい人物は現皇太子なんだなあ。・・・・だが、その願いは永久にかなうまい。あの方と民主党の議員たちは同類に感じる。何かが決定的に欠けている。それをひとことで言うなら、たぶん現実だ。現実という、あらゆるものがつまっているナマものだ。リアルなものだ。
 自民党からは腐臭がただよっていた。しかし、民主党のなかには消化しなければ腐るべきものじたいががない。ただ、人工的な部品だけで成りたっている。
 福岡伸一は、「生命には部品がない」と言う。――小林秀雄なら「生命というモノはない」で終わらせそうだが、福岡には小林よりゆたかな言語感覚がある。――そのイメージを「現実」にも広げられるかどうかだ。広げられなかったら天皇制はわからない。

ここでインターミッションあり。

 さきほど、ある公立の教員に会った。部会で何度か見ているうちに、人物だ、と感じた男だ。で、前からその男に言いたかったことを言った。「あなたみたいな人が教育委員会に入ってほしい。」昨年だったか、福岡の教育委員会の人間を見てギョっとなった。――事業仕分けをするならまず教育委員会からにしろ。・・・・あいつらは地方公務員か・・・・--昔の内務官僚とはこんな感じだったのだろうなと思った。――だからその男に頼みたかったのだ。男は複雑な顔をして言った。「何度か誘われましたが、断っているうちにその時期は過ぎました。」かれも多分もう50代なかばか。現場のほうが楽しいと決まってはいる。それでも犠牲的精神の持ち主だと思ったのだが、もっと早い時期に言う必要があった。が、かれの存在に気づいたのはほんの最近なのだ。・・・終わったところからはじまる道、が、彼にも用意されていたのかもしれない。

 『日本の誕生』は、いつか別のかたちで渡せると思う。20歳のころ、はじめて出かけた韓国の公州の安宿で浮かんできたことと、先生から聞いた話と、その後考え続けたことをごちゃまぜにして、小説でも戯曲でもエッセイでもないものを構想している。その宿題が果たせたら、極楽でも地獄でもないところにいるはずの先生(かれは、「学問とは非情であるべきだ」と、怪力乱神をかたく語らなかったひとだ。――その弟子は語りまくっている。そのことを指摘した奥さんに対して、「真似をするだけならただのロボットだからね」と言ったという。そんな人だった。)からはじめてお酒をついでもらえそうな気がする。これは「一反田」とともに退職後の宿題だ。ただし、まだ題名も浮かんできていない。
 実は35年前、「ムヅヨオ」を書き上げたとき、ふたつのことが浮かんできた。「これでもう暫くはなにも書かずにすむ。もし書くとしたら次は天皇制だ。」――あれは、祭、を書こうとしたつもりだったんですよ。
 1500年前と今が表裏でつながっていることが誰の目にも丸見えになる瞬間――それを書こうと動き出すときが近づいている。――『熊から王へ』を読み終えた満足感とは、そういうぐあいに充填されてきている。
 えらそうなことばかり言って、来春になったら萎えてしまうかもしれないが。

別件。
 いや、続きかな。
 今回の首相交代のドタバタはあまりにもひどかった。わが家の絶滅危惧種はびっくりするほどの愛国者で、「また日本がばかにされる」と歎く。たしかに、あそこまでこの国のショボさを見せつけなくてもよかろう。(実は、絶滅危惧種じたいは気づいていないが、彼女は現政権から大きく傷つけられたひとりなのだ。だからあの人たちをはげしく憎んでいる。)
 しかし、この男はこのショボさをどこかで愛している。甲斐さんがアフガニスタンを愛するように、この男はこの国を愛している。そのふたつの国を、次元のちがう国だと思ったら何も見えなくなる。
 このショボい国のショボイい時代のショボさをしぶとく護持していこう。

ほんとうの別件
 昨日列車にのって帰ってきた。土曜日の午後とあって満員だった。しかたなく吊り革にぶらさがっていると、30歳くらいの体格のいい女性が上のほうから声をかけてくれた。
「いちばん前の折りたたみ椅子があいていますよ。いらっしゃいませんか?」