辻征夫について

GFへ
 『ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像』のふたつ目まで読んだ。
 前回か前々回の手紙に、「オレに似ている」と書いたのは取り消します。似ているところは確かにあるんだけど、Wより一桁スゲエ。――二桁とは感じないけど――。こんな男がいた、ということに驚く。と同時に、こんな時に知ってもうけた、とも思う。知るタイミングがばっちしだった。
 実は昨日から寝込んでいた。この一週間ずっと体調がよくなかったんだが、木曜日あたりからいよいよひどくなって、早退をつづけ、結局寝込んでしまった。その熱っぽいときに読んだのがよかったのか、読んだから熱っぽくなったのかは分からない。例によって知恵熱が出たのかもしれない。もしそうだとしたら、61になってまだ知恵熱をだすこの男はけっこう相当なものではあると思う。
 この男の自慢できるもののひとつは「旅」が上手なこと。これは二人とも認めて下さるものと思う。いちばんの自慢だ。そして、ふたつめは、ものごとのタイミングのとりかたがうまいこと。これは、自分でもどうやってそうなのか、いまだに分からない。たとえば、いい歳になってから、同じくイイ歳の現絶滅危惧種といっしょになったのも絶妙のタイミングだったと思う。――その絶滅危惧種は、本日、配偶者がおとなしく寝ているのを見計らって小石原まで、割ってしまったコーヒーカップを買いに行ってきた。大冒険だったらしい。――
 たぶんこの国にはまだ名前も知らないスゴイ男や女たちが他にもごろごろいるんだろうと思う。――だから、ひとりの男を知ったことよりも、まだ知らない男や女の存在を確認できたことに誇らしさを覚える。

 『手紙』を授業でとりあげようと思って、プランをつくった。投票式授業である。

『手紙』はどのようにして作られたのか?
○1,事実をありのまま詩にした。
△2,事実を少しだけ変えて作った。
 3,ある伝えたいことのために完全なフィクションをつくった。
 4,夢でみたでたらめをそのまま詩にした。
○がいちばん人気のあったもの。△が二番目。4,はWにはよく起こることなんだが、一票もはいらなかった。

1,「事実をありのまま詩にした。」について、女を「思い出せない」理由はなにか?
 △ア、いつものように酒場で出会った女を口説いたんだけど、いつ   ものように朝になったら昨日のことは思い出せなかった。
  イ、幼稚園の年少組の時に求婚した相手だったけど、相手だけが   ずっとそのことを覚えていて、再度求婚してくれるのを待って   いた。
 ○ウ、ほんとうに全く知らない女からきた手紙だった。
 
2について、「すこしだけ変えた」のは、どんなことか?
  ア、女からきた手紙ではなく、男からきた手紙だった。
  イ、女からきた手紙ではなく、作者が女に出した手紙だった。
 △ウ、忘れたいのに忘れられない女からの手紙だった。
 ○エ、「あなたを愛していません」ではなく、「愛しています」だ    った。

3の「ある伝えたいこと」とはどんなことか?
  ア、男と女はけっして理解し合えないということ。
 ○イ、言語表現も、音楽の不協和音や絵画の絵の具を削る技法と同    じように、可能性を広げられるということ。
 △ウ、われわれも、ものごとも不確かなものにすぎないというこ     と。
  エ、人はけっきょく一人で生きて、ひとりで死んでいくのだとい    うこと。

 生徒はけっこうのって投票した。2のエが当選したときは、「ロマンチックやん」と声がでた。
 が、そういう授業ができるというのは、やはり辻征夫のすごさだ。
 いつ読み終わるのかは知らないけれど、そうなったらまた回します。

別件
 毎朝、家をでて、団地の集会所の前で絶滅危惧種がくるのを待っている。その集会所のまえに草が生えてきたのが気になって、草むしりをはじめた。先日は、「草むしりをしているおじいちゃん」に登校中の小学生が手をふってくれた。そんなことがあって、いよいよ「自分の仕事」みたいになって、今では集会所のまえには草一本も生えていない。それが気持ちいい。
 若いころは、せっかく生えた草はそのまま生やしてやればいいのに、と思っていた。が、今は「場所による」と感じる。
 50歳の頃、まだしっかりしていた母親に「この頃やっと人間らしくなってきた気がする。長生きしてみるもんやね。」というと、「80すぎんと分からんこともある。」と言い返された。ほんとうに、まず70になってみないと分からないことがいっぱいある気がする。