森本能舞台


GFへ

 どうも疲れが取り切れない。昨夜は8時過ぎに寝て、今朝起きたのは11時だったのに、まだ体も頭もだるい。
 サッカーはラジオで聴いた。「先に一点とったら引き分けに持ち込めるかもしれない。」しかし解説者は、「前半は0―0でいいんだ」という。「攻めるときも相手のうらを狙って、ゴールキックで再開させればそれでいい。下手に点を狙って前にでて、逆に攻め込まれないこと。」
 後半に入っても、「20分までは0−0を狙え。」記憶はそこで切れている。が、たぶん岡田も選手もオレとおなじことを考えていた。「先に点を取らなければ勝ち点もあげられない。」勝負とはそんなものだと思う。日本は勝負をした。だから、そのチャンスはもう一度ある。頑固におなじことができるかどうかだ。それができれば決勝トーナメント進出の可能性は十分にあるんじゃないかな。
 昨日は市内にある森本能舞台で、はじめて通しの舞台をみた。――福岡にはたいていのものがひと通りはそろっている。城下町の底力だが、民間のものとして維持されているtころはどのくらいあるのか――ハチャメチャに面白かった。(その興奮で疲れているのかもしれない。)
 おもしろかった理由はふたつある。ひとつめは演目が、密漁をしたために水刑になった『阿漕』だったこと。ちょうどその日か前日かに図書館司書が「はい先生」と開高健の『直筆版オーパ』をもってきた。
――これ、もう家に持って帰るぞ。
――それはダメですけど。でしょ?
  開高健をみたら先生を思い出すんです。
 短大卒業以来25年の付き合いともなると、そういう会話もある。そうか、彼女も「女の子」と思っていたが、もう四捨五入すると50なんだ。
 そんなことのがあったあとの『阿漕』だった。ついでに、「わかりにくいでしょうから」と最初に粗筋を説明した森本氏は、「亡霊は旅人に、どんな風に漁をしたか旅人にやってみせます。そのとき亡霊は生き生きとなるんです。」という。オーパ! 体が動くうちに三人で釣りにいこう。
 見ているうちに『一反田』のイメージがわいてきた。ほんとうに我が野心は実現されるかもしれない。そのときはついでに、作者自身がていとうていとうと鼓をうちつつ語り、Gが尺八を奏でる。さて、Fはなにをする? 舞うか?
――先生は人生を楽しんでいますね?
――あたりまえたい。せっかく人間に生まれてきたのに楽しまんでどうする!
 昨日の全校草刈りのときの会話である。

 あとひとつ、びっくりしたことがある。能の前に狂言があった。それに三人しかいないという女狂言師が出てきた。――何年前になるか、木之本にいくために列車を待っていたホームでのことだったと記憶しているから、長治庵に泊まった年だと思う。ホームの端っこに佇んでいるGパンの女の子から目が放せなくなり、そのことを言うとFが「うん、なにか内面性を感じさせる子だね。」と応じた。その女の子だった。――「ウソやろ!」と思うかもしれないけれど、こういう我が記憶は常軌を逸しているのじゃ。なんしろ、30年以上前に見かけたMさん(老人ホームの新しい入居者)のことを思い出したくらいなんだから。
 もちろん、あのときより随分おとなっぽくは見えた。だけど、まちがいなく彼女だった。舞台の上の表情しか見られなかったけど、たぶん、いまも普段はあの表情をして生きている気がする。
 忘れないために、名前を書いておく。宮永優子。もしテレビ番組表かなにかで見たら、ぜひ確かめてください。


別件Ⅰ
 自民党民主党がどちらも消費税値上げをうちだした。(10パーセントじゃ全然足りないけれど)他の政党はすべて反対。ひょっとしたら菅直人は、二大政党制への道を開いた政治家として名を残すかもしれない。(きらいなことに変わりはないけど。何せこの男は、わが家の絶滅危惧種以上に執念深いのです。)どうしようか迷っていたけど、やっぱり投票にいこう。

別件Ⅱ
 洲之内徹氏が私の絵を「この世のものとは思われない趣さえある」というとき、私の気持ちを他の方向から感知していると思う。
 私の考えでは、「この世のものとは思われない」のは目前の現実で、目前にある現実が、「この世のものとは思われない」ような美に輝いている事実です。――長谷川リン二郎――