神はことば(にすぎない記号)だった?

GFへ

 昨日考え始めたことがある。
 まだ全然まとまっていないけど、ともかく書きはじめてみる。
 日曜日に『神の発明』(カイエ・ソバージュ)を開いてみた。まだその何ページ目かなんだけど、何かが気になって途中で読みさした。
 ──「神」はことばだった。「神」ということばがまずあった。──結論は、そうなるんじゃないか。
「はじめにことばがあった。ことばは神だった。」
 ひとびとはそれを様々に解釈しようとした。そのためには「ことば」をさまざまに言い換える必要があった。しかし、それらはすべて無駄な努力だったのではないか。旧約聖書の文言は正確な日本語に翻訳されていた。われわれはそのままに読み、それをユダヤ教と考えればよかった。
 「神」は実体ではなく、ことばであった。ことばを発するものなのではなく、ことばそのものだった。
 すると、ユダヤ教の「神」はたんなることば、たんなる記号に還元されるのではないか。 ただしそれは、シニフィアンシニフィエを兼ねた、日本的にいうならば両性具有的記号なのではあるが。
 なんだか、自分で、わかって言っているのか、わからずに言っているのかも区別できずにいる。が、昨年夏のあの生理的嫌悪感の根源の影が垣間見えた気がする。
しかし、これ以上は近づかないほうが、大人のあり方でありましょう。

別件
メモ帳を繰っていると、
鈴木信太郎とある下に
――神には過去がない。人間にはある。だから、人間はその最初から有限なのだ。――とある。それが鈴木信太郎の言葉なのかどうかもわからない。何しろ、その次の行は、今年から代わった母親のかかりつけ医の電話番号で、なんともとりとめがない。