内田樹講演要旨

 福岡市国語部会の会報誌2010号に昨年の内田樹講演の全文が載っていた。が、「はて、こんな内容だったのか」と感じた。たぶん、先住民の息子は例によって、聞きたいことだけを聞いたのだろう。
 で、自分が聞いたことと、聞きながら考えたことをここに残しておく。
 なお、別の話だが、内田樹の文章を送った信州在住の同級生からメールが届いた。「内田なる人、胸のつかえを言葉にしてくれ、別の筋書きを語り、なるほどと思わせる。天才的詐欺師か」とあった。
 フム。送り甲斐があった。

五捨四入③
    
11/.5九州地区国語教育研究大会
神戸女学院大学 内田樹教授 講演要旨

◎物事はその目的とはちがったところで効果をもたらしている場合がある。 
例A 朝10分〜15分の読書の時間を導入したところでは国語の学力がのびる。それは、直接的に読解力が伸びているのではない。識字機能が強化されてくるのだ。つまり、「読書の時間」は「読字の時間」なのである。※1

例B 国語の問題で高得点をとる生徒は「文章読解力」が高いと評価される。しかし、問題をとくとき生徒は、実は筆者や作者の文章表現を理解しているというよりは、問作者のしかけたゲームの仕組みを読み取り、顔を見たことももちろん話したこともない問作者の期待を読み取り、その期待通りに振る舞おうとしているのである。この能力は実社会にでたとき、単なる文章読解力よりも遙かに重要となってくる。

例C 学校教育のなかのさまざまのシステムもまた当の学校や教員が考えている目標とは異なったところで効果を上げる。
たとえば、いわゆる集団行動や集団演技、あるいは運動部での合同練習などは、その行動や演技や技術の向上とはまったく異なった「集団の内側にいながら全体とそのなかでの自分の位置」を感じ取る「俯瞰感覚」という、きわめて重要な能力を養うのに役立っている。

◎学力の低下を防止するために新しいことをやろうとするのは相当の疑念が生じる。
 現在子どもたちの学力が低下しているというのは厳然たる事実である。※2
が、それを防ぐために講じている方法には疑問符がつく。その最たる例が英語教育である。昔から、英語が苦手な生徒はいくらでもいた。しかし、今は「英語大嫌い生徒」を再生産し続けるシステムを大人側が作っている。それが「オーラル・コミュニケーション」の時間である。女子大生のなかには、ビートルズ大嫌い世代ができつつある。中学の時、むりやり何10回も聞かされ、覚えさせられ、意味を聞き 取らせられたからである。
 以前の、「読み書き」に限定した英語教育のほうが効果的だったことを思い出したほうがいい。
 国語教育でも、たとえば、漢文の素読(「意味は分からんでもいい。ただ読め。」)を復活させてはどうか。漢文そのものが必要になる子どもは多くはいないだろうが、「国語力」の向上には必ずむすびつく。最初に語ったように、教員自身の考えていることとは違うところで、教育効果がもたらされていることがままある。
 
◎学校は旧来の方法を牢固として維持しようとしてはどうか。
 教室には教壇があったほうがいい。運動場には朝礼台があったほうがいい。なぜなら、「先生のほうがえらい」学校で学んでいる生徒たちのほうが幸運なのだから。

※1 
 養老孟司のよると、日本人の場合、漢字を認識する脳の部位と、仮名文字を認識する部位とは別々になっている。漢字は画像認識の部位で処理されるのに対して、仮名文字は音声認識の部位で処理される。日本人は、その画像処理と音声処理を同時並行でおこないつつ、文章を理解していく、先進国ではたぶん唯一の人々だ。日本のマンガが他の追随をゆるさない世界の最高水準にあるのは偶然ではない。マンガの絵は画像、ふきだしは音声文字として一つの齣のなかにある。日本人はそれを別々に認識するのではなく、同時に見ているのである。
 日本の近代化が急速に進んだのも、この「表意文字と音声文字を同時に処理していく能力」に負うところが大きいのではないか。※①

※2 現在の社会的風潮は、「最低限の労力で最大の利益をあげる」ことを目指している。それを実現したものが成功者なのだ。その風潮は子どもたちにも受け継がれる。「最低限の労力で最大限の点数をとる」のがスマートな生き方なのである。※②
 親も教師も「いい点数をとって、いい大学にはいって、いい会社に就職しないと、高い所得や地位は得られない」と言う。しかし、それでは、「家でごろごろしているときが一番充足している」と感じている子どもたちに勉強したくなる促しを与えたことにはならない。家でインターネットをつかって株取引をし、短時間で高い収入を得ている人がヒーローである世代にどのようなインセンティヴを与えられるのか難題だ。むしろ、昔ながらの、旧態依然とした教授法と学校運営のままにしておいたほうが効果的なのではないか。※③


要約者 注
※① 漢字が情報処理に便利なのはその通りだと思うし、近代化に大いに役立ったのも事実だと思う。が、自分でものを考えるとき、日本人は「ひらがな」的に考えているのではないか。漢字交じり文は、日本人が自分の意見を持ち得ない原因のひとつなのではないかと思うようになってきた。漢字熟語を並べているとき、日本人は実はなにも考えていないのである。
 日本に来た宣教師たちを質問攻めにし、彼らを驚かせ、喜ばせもした日本人が、識字階級ばかりだったとはとても思えない。むしろ、かなしか読めない人々のほうが宣教師を驚かせる質問を浴びせたのではないか。その傾向は明治以降現在に至るまで連綿と続いている。日本人は、いわば、漢字語で建前をつくり、かなで本音を語りつづけてきた。漢字語で語られることは他人事であり、自分が関わることはひらがな語に切り替えて語った。その漢字語で自分の国を動かそうとする人々が増えると進路がゆがみはじめる。と同時に、かな型人間たちがこの社会でリーダーシップをとると大きな混乱が生じる。日本語は扱いにくい言葉だと思う。
 少なくとも私は「漢字を読めない総理大臣は知性に欠ける」、と評価する人々の「知性」にギョッとなった。(総理大臣には漢字くらい読めてほしいけれども)知性の深さと知識量はパラレルではないし、漢字語的知識は自分でものを考えるとき、むしろ邪魔になりかねないものなのだ。もちろん、その一方「和語」のみで文章を書こうとした本居宣長の表現できることにはおのずから限界があったのを忘れているわけではないけれども。
 たぶん、明治以降のすぐれた日本人は、「ひらがな的(西欧語も含む)」に考え、「漢字語」を使って表現する、という面倒な作業を、面倒くさがらずにしていたのだろうと想像している。もちろん、西欧語を漢字語的に処理して生きた「知識人」のほうが多かったのだろうが。

※②「最低限の労力で最大の利益をあげる」ことは明治以降、あるいはそれ以前からの利益追求のもっとも基本的な考え方であり、昨日今日からはじまった傾向ではない。(たとえば、江戸初期に発明された「千歯こき」は別名「後家倒し」とも呼ばれた。男手を失った家庭にとっての貴重な季節労働の機会をなくしたからである。裏経済の世界で「まわし」を考えついたのも「効率」をあげるためだった。)ただ、戦後を迎えるまで、利益追求ができる人々と、その道を持たない人々との間には「格差」などという言葉では表現できない溝があった。
 ある小説家は、「若い頃、横浜から東京までコーヒー豆を運ぶと値段が倍になったから、生活は楽だった。」と書いている。旧博多駅そばの商人の回想録には同様に、「50円で仕入れたものは100円、100円で仕入れたものには200円の値をつけさえすれば、田舎からでてきた客にとぶように売れた。」とあった。(中洲が繁盛したはずだ)
 宮尾登美子の小説を映画化したもので一番印象に残ったのは、主人公が学校の教師になろうとしたとき女衒の父親が「この家から勤め人などまだ一人も出ていない。お前はこの家に泥をぬるのか!」と怒る場面だった。原作にその台詞があったかどうか記憶は定かでないが、敗戦の混乱のなかで漢字型人間に大きな失望を抱いた宮尾登美子は、典型的なひらかな的人間である父親に深い思い入れを持っていたことは確かだ。彼女が成長した時期は、たぶん、「勤め人」にはならずに自力で生きていることへの誇りがまだあった時代なのだ。
 現在の混乱は、上に書いた「溝」がなくなったところからはじまった。スーパーマーケットの登場は、人々が価格形成のからくりに気づくきっかけを与えたし、(子どもの頃、親が「薬クソ倍」と嗤っていたのを思い出す。「クソ倍」であったものは他にもたくさんあっただろう)、小商店が自力で生きることを困難にもした。そして、利益追求の手段を手に入れた人間たちのはしっこさを、大半の人々が欲しがるようになった。それは、実業学校の衰退と普通科高校の興隆につながった。そして今、はしっこく利益を追い求める生き方を「ダルイ」と感じる子どもたちが増え始めているが、彼らはもう実業高校に行こうとさえしない。 

※③
 今から45年前に通った高校は、既に共学ではあったが、(それがどんなものか知らないながら、)旧制中学的であろうとする学校だった。そんな学校で(いつ追い出されるか分からん、と感じながら)過ごした3年間がいまの自分にどんなに大きな影響を及ぼしているか、改めて「オレはフがいい」と思わずにはいられない。
 入学して最初に感じたことは、「この人たち(教師のこと)は、オレたちを大人として扱おうとしている。」ということだった。その「この人たち」はまた、小学校や中学の教師たちと違って、何ともフツウの人たちだった。そう感じたのは、たぶんこちらがその分大人に近づいていたせいでもあるだろうが、あの高校の教師たちの世界観も大きく関わっていたのではないかと思い始めている。
 その高校があった町は、いわゆる炭坑町だった。大手の炭坑から、タヌキ掘りのモグリの炭坑まで、いくつあったか知らない。親が大手の炭坑で働く友だちの家に遊びにいくと、その友だちの家が地形的にどの高さにあるかで、親のその会社での階級が分かる。そういう「現実」が丸見えになっている社会だった。そんな町で育った子どもは、真夏にスーツを着こなして歩いている男は何か胡散臭い生き方をしているのだと、だれから教わるのでもなく知っていた。
 そこの選挙区は4人区で、公明党が殴り込みをかけてくるまでは、自民、社会、民社、共産党がいつも一議席ずつを分け合っていた。毎回、自民党だけが2人立候補していたから、「自民党からの立候補者の敵は、社会党でも民社党でも共産党でもなくて、自民党対立候補だ。」と、自民党支持者の父親は笑っていた。
 のちに親しくさせてもらうようになった教師は、「最初、定時制に赴任したが、坑内作業を終わらせて駆けつけてくる生徒が居眠りしているのを起こしきらんやったな。」と述懐していた。たぶん、その大学を出たばかりの教師にとっては、地底にもぐって働いている年若い生徒のほうが自分より「大人」に感じられたのではないだろうか。
 いま、自分のなかには、そんな「ひらがな的世界」で成長した誇りが、別に他の町と比較することによってではなく、ふくらみつつある気がする。時代は変わったが、そんな、子どもが育つために好運な環境をもった町が、まだこの国にはたくさんあるはずだ。
 
◎物事はその目的とはちがったところで効果をもたらしている場合がある。 
 例A 朝10分〜15分の読書の時間を導入したところでは国語の 学力がのびる。それは、直接的に読解力が伸びているのではない。 識字機能が強化されてくるのだ。つまり、「読書の時間」は「読字 の時間」なのである。※1

 例B 国語の問題で高得点をとる生徒は「文章読解力」が高いと評 価される。しかし、問題をとくとき生徒は、実は筆者や作者の文章 表現を理解しているというよりは、問作者のしかけたゲームの仕組 みを読み取り、顔を見たことももちろん話したこともない問作者の 期待を読み取り、その期待通りに振る舞おうとしているのである。 この能力は実社会にでたとき、単なる文章読解力よりも遙かに重要 となってくる。

 例C 学校教育のなかのさまざまのシステムもまた当の学校や教員 が考えている目標とは異なったところで効果を上げる。
 たとえば、いわゆる集団行動や集団演技、あるいは運動部での合同 練習などは、その行動や演技や技術の向上とはまったく異なった  「集団の内側にいながら全体とそのなかでの自分の位置」を感じ取 る「俯瞰感覚」という、きわめて重要な能力を養うのに役立ってい る。

◎学力の低下を防止するために新しいことをやろうとするのは相当の疑念が生じる。
 現在子どもたちの学力が低下しているというのは厳然たる事実であ る。※2
 が、それを防ぐために講じている方法には疑問符がつく。その最た る例が英語教育である。
 昔から、英語が苦手な生徒はいくらでもいた。しかし、今は「英語 大嫌い生徒」を再生産し続けるシステムを大人側が作っている。そ れが「オーラル・コミュニケーション」の時間である。女子大生の なかには、ビートルズ大嫌い世代ができつつある。中学の時、むり やり何10回も聞かされ、覚えさせられ、意味を聞き取らせられた からである。
 以前の、「読み書き」に限定した英語教育のほうが効果的だったこ とを思い出したほうがいい。
 国語教育でも、たとえば、漢文の素読(「意味は分からんでもい  い。ただ読め。」)を復活させてはどうか。漢文そのものが必要に なる子どもは多くはいないだろうが、「国語力」の向上には必ずむ すびつく。最初に語ったように、教員自身の考えていることとは違 うところで、教育効果がもたらされていることがままある。
 
◎学校は旧来の方法を牢固として維持しようとしてはどうか。
 教室には教壇があったほうがいい。運動場には朝礼台があったほう がいい。それらは「先生のほうがえらい」ことを生徒が理解するた めの仕掛けであり、「いま自分はどんな集団のどの位置にいるか」 を感じ取る能力を養う仕掛けなのだ。「先生のほうがえらい」学校 で学んでいる生徒たちのほうが幸運なのではないだろうか。

別件
 はじめに書いた、国語部会誌『つくし野』に的野雅一の訃報が載っていた。ふいうちだった。2年ちかく前にはじめてその存在を知り、いい男に出会えた、と喜んでいたのに、結局いちども口をきくこともなく終わった。
 3人が書いている追悼文はどれも、いまの日本にこんな交流が残っているんだと、それだけでほっとするものがある。しかし、悔しい。
 追悼文のなかで紹介されている的野の句をここに残しておく。読んだら、GもFもその悔しさがわかると思う。

      百済から飛鳥を孵(かえ)す寒茜