「日本人っぽさ」について


GFへ

 今年のお盆もウロウロしているうちに終わった。おかげで楽しみにしていた下関美術館と佐世保ちかくの小さな都会へは行かずじまい。(佐世保のほうはまだ狙っているけど。そうだ、相浦町だ。)二カ所の墓参りと大塚先生の初盆、それに昨年からは老人ホームとの往復が加わる。
 昨年七月のわが演技は生涯最高の出来映えだった。たぶん、35年の教員生活で培ったたまものだろう。あくまでさりげなく、どこまでもさりげなく。――いま母親はおだやかな毎日を過ごしている。「明日も来るきね。」「来られると?」「うん。」・・・・また、夕方になると、「いっちょん来ん。」とおっしゃるのでしょうねぇ。
 夜、テレビで舞台劇『変身』を見た。演出家は10歳ほど年上のイギリス人。(名前は覚えていようと思ったけど眠ったら忘れてしまったしまった。)久しぶりで劇をみた気分がした。それ以前というと、たぶん『上海バンスキング』になるから10数年前。その前はいつ何だったのか思い出せない。映画なら数年に一度は思い出せるものがあるし、テレビでなら年にいくつかある。夏休みに入ってからだけでも、『歌行燈』『トルパン』。それぞれずっと覚えているだろう。『歌行燈』は博多節の三味線を、『トルパン』は主人公の姉役のカザフの女優さんを。あんな女っぽい女優さんにはひさしく出会った記憶がない。――素人の女の人なら幾らもあるけど。――舞台劇、いわゆる新劇をみなくなった理由のひとつはそういうことなんだな。
 そのかわり、歌舞伎なら『女殺油地獄』、坂田藤十郎の「娘道成寺」(もう本物を見る機会はないだろうけど、テレビでちょろっと見た『心中天網島』もすごかった。)それに先日テレビで見た玉三郎。名前が出てこなくなった女狂言師、宮永さん(?)もやたらと女ぽくて「みた」という気がした。歌劇『ヴォツェック』もその場で舞台を見たかった。
 つまらないのは、ただ「新劇」だけではない。テレビに出てくる人物で、日本人ぽさを感じる人が極端に少ないのはどういうわけなんだろう。数日前の上海万博特集番組に出てきた中国の女の人たちのほうが、よっぽど日本人っぽかった。ひょっとしたら今この国はひどく不幸な時代を迎えているのかもしれない。
 自分の感じる日本人ぽさが、どういう根拠からきているのかはわからない。ただ『変身』の主役だった森山未来とかいう名の俳優は立派に日本人ぽかったし、墓参りの帰りの満席だった列車の乗客はどの人からも目がはなせなくなり、申し訳ないと思いながらジロジロ見てしまった。少し以前に直方から乗った支線の乗客に至っては、懐かしい顔ばかりで感動的だった。日本人ぽい人は幾らでもいるのだ。ただ、俳優や政治家といった人前に出る仕事をしている人となると急に減ってしまう。もちろん、3代前は日本人じゃなかったんだろうなと感じる人も多いけど、理由はとてもそれだけでは追いつかない。というか、以前は、そういう人も人前に出るまえには、日本人ぽくなっていたはずだ。今は、みんな先祖がえりし始めているのかなと感じるほど日本人の雑種性が露骨になってきている。脱亜細亜時代が終わって、入亜細亜化しているのかもしれない。たぶん、そのほうが(政治家も含めて)お互いに楽なのだ。別の言い方をすれば、教育現場にいる大人(?)たち自体に「日本人」というイメージが喪われて久しくなったのかもしれない。文化的国籍をもたない国際人なんてありえないのに。
 昔、「人と人とのまじわりとは人格のにじみあい」ではないかと考えたことがある。いま、都会ではそういうことが減りつつあるのかもしれない。個人が自己主張する文化のなかでは個性の育ちようはあるまい。ましてや、個人と個人が本気でぶつかり合う機会なんて、いまはスポーツでしか得られない。甲子園の人気がいよいよ膨らむはずだ。
 なにか、人格の陶冶、という言葉が死語になりつつある気がする。G、もはやそなただけがたよりだ。若者に人格を練る場を提供するとが学校ぞ。

別件
 このところ毎週のように昼飯を食っている飯塚の中華レストランでは、最近いつも平原綾香が流れている。昼食タイムのテーマ曲なのか、日曜日の曲なのか。まさか毎日朝から晩まで同じ曲のみということはないだろう。店のご主人と味の好みが一致したら、歌の好みも一致するのかな。