保田与重郎ぬき書き―2―

保田与重郎ぬき書き―2―

近世の唯美主義
芭蕉の深刻な偉大さや秋成の峻烈な精神よりも、私には蕪村のあの大様の春の絵巻風の世界のもつ永遠ののどかさと、永劫の郷愁、あるいは無限の叙情の悲哀と雄大な絢爛、さういふ混淆の中に、大洋の感情を思はせるやうな将来文芸の道さへ考へる。
・近世文学は蕪村の叙情の様相より展けず、反って秋成の批評態度やその表現の方から、それの俗流化として展かれていった。

涼しさや四つ橋を四つ渡りけり
むしってはむしっては捨て春の艸
春霞晩にはもどる旅をして
けふの菊に袴著て寝る狐かな
野の花や菜種が果ては山の際
幾秋かなぐさめかねつ母ひとり
わかいとき見ぬ暁のしぐれ哉
見あくほど見ても初島雪の降る
是ほどの三味線暑し膝の上
春風や堤ごしなる牛のこゑ
眠る蝶それともに散る牡丹かな
まづ奥を見るや師走の封じ文
お奉行の名さへ覚えずとし暮れぬ
立秋や白髪もはえぬ身の古び
  なにごとも有りのままを言はで、一句をかたはにして嬉しがるは、
  さてもいやな事
           小西来山(1654〜1716)

芭蕉の新しい生命
・枯淡な談理を語るをもって文藝批評とする俗物どもが、万葉と王朝とを共には受け入れがたいと述べる。それは恐らく二つをどちらも感受し得なかったか、ないしは二つの感受を共に語りうる人間文化を理解せぬからか。
・文芸上の血統と系譜の樹立は、つねに創造と変貌を心とする。万葉復興論者の決論は、けふの世界に万葉語彙による衝動歌を作ることではない。万葉から新古今を導いた佐々木信綱博士の結論は最も正しい。
・負債である遺産を喜ぶ者はないであらう。しかし現代日本の負債はけふの日本人がやはり負ふべきである。
・ドイツ的日本フランス的日本、あるひはイギリス的日本、これらの間にさへ、日本に於てはまだ橋がない。
芭蕉の旅と西行の旅は完全に異なってゐた。西行は一人の歌を歌って、心の自由と開放をめざした。芭蕉の旅には、もっと近代の旅の誘ひに近いものさへ見出だされる。
芭蕉の踏んだ末期の路が必要としたものは、おそらくもののあはれの二つの子――有心と無心――であった。心をすき心としてそれを肯定するものと、すき心の否定より出発するものと、この二つの彷徨する詩人のありかたが芭蕉の前にあらはれた。・・・・西行に於て世俗の意味で遁走であったものが、芭蕉に於ては闘ひであった。
・気質的には一茶は完全に封建の子であった。むしろ蕪村には再びされるものへの市民文化的希望がある。芭蕉の遺鉢はやはり蕪村である。しかも芭蕉はつひに最後の正統を描いた人であった。・・・・芭蕉がその俳諧をまくときに、壮麗な儀式を挙行したのは、古代の撰集の心に仰いだものであらう。あの絢爛な猿簔一巻は、さういふ文藝界に於ける王侯の心で作られた近世最大の記念品である。それはあるものの最後の美しい形式主義であり、しかもまた永遠な新しいものの苗床の感さへ感得できる。
・相聞と旅との近接を描いたのは、伝統的には業平に始まるかもしれない。しかし、すき心の否定から、旅に相聞を描いた最初の近頃の人は西行である。
・相聞の連想形式を表現することから、旅の連想形式も作られた。純粋なこれらの連想形式は、また俳諧の主節をなす連想形式である。
西行は自然を歌った。まことに、一切の自然になじめばよかったのである。ここに西行の国民詩人としての意味がある。万葉人の驚きの対象と王朝人の悲劇人工の心境を西行は旅によってなづませたのである。しかし、その形は芭蕉に於て再現し得なかった。・・・・元禄の芭蕉は旅の中に新しい自然をつくり、新しい自然を変革する感覚の行使と闘ひを迫られていた。芭蕉は自然にも詩にもなづめなかったのである。・・・・この雄大な体系と精神をもった天才は、不幸にもあらゆる展けをとざされてゐた。・・・・彼の出現によって元禄が、一つのピリオドとなったのである。

近世の発想について
・思想をもって文藝は作り得ない。文藝は新しい発想であり、思想や理論は・・・古い時代の骨組みを語るイデオロギーにすぎない。さて万骨は芭蕉が出てはじめて開花したのである。
芭蕉の遺鉢を自信した蕪村が、・・・専ら有羞の心から抒情した詩は、依然として客観的に真実な芭蕉の遺鉢と精神の先駆の完成である。芭蕉の変貌しべきであった奥はここに完成された。それは俳句のみではない。蕪村の連句のもつ洗練された浪漫的文化を芭蕉の七部集の波瀾重畳する表現に比較すべきである。・・・・さうしてここに近代が生まれたのである。
 
別件
 新聞で河野裕子さんの訃報を見つけた。その人の本を読み始めたばかりだった。なんだか、『サラダ記念日』の先輩のような気がした。