安田與重郎文庫4抜き書き―3―


蕪村の位置
・「春の暮れ家路に遠き人ばかり」と歌った蕪村の、心の祈り中の中には、悲哀と倦怠と浪漫と、さらに色情と、さういふ漠然とした詩人の家郷を失っ嘆きが悩ましいまでに描かれてゐる。
・わが文藝の伝統は芭蕉の慟哭ののちに、蕪村の転変があった。再び都へ帰ってきた。・・・水無瀬の水脈は変わったであらう(が)、つひに耐へて絶えなかった。俳諧になった歌は再び蕪村によって抒情に立ちかへったのである。

近代文藝の誕生
・秋成にあらはれてくる「小説家」は日本文学史上最初のものである。
西鶴の健康な文章や骨格のよい物語に対し、秋成の文章は不健康で物語は近代文学風に作者の傷手や負い目の表情になる。「わやく」というものが都会的なものであり、そのかなしみは近代文学と近代小説家のもつ重要な資格の一つである。
・秋成の文章は恥ずかしさつねに意識して書いた文章で、それに比べると西鶴の方はまるきり恥を思はない大小説である。
・『膽大小心録』は面白いけれど、実に悪い作品である。一等あらはに秋成の小人物性格を示すもので、さういふ小説的な一種の性格は、『雨月物語』ではずっと美しく昇華してあらはれてゐる。
・蕪村は壮年を旅に暮らし、芭蕉を崇拝しつつ、旅について何らのべてゐない。少なくとも芭蕉風にのべるところがない。すでに時代が変わったのである。さうして芭蕉を最後の古代の人として、文学に近代様相が出現した。
・秋成に匹敵する小説家は、西洋小説が日本の大衆に流布したところにあらはれた。しかももうその日に於いて、秋成のもった「小説家」といふものが、西洋近代の小説家のある気質に劣らぬことを大衆は知るやうになってゐる。その秋成は元禄といふ時代、芭蕉といふ人、それとはっきり訣別して了った最初の人である。
雨月物語第一巻の作者としての秋成は永遠である。ここから近代西学の文藝評論的興味の一切さへすなほにひき出される。・・・・秋成は日本の近代のために準備されてゐた一人である。・・・・その文章の発想の妙も、美しさも、その小説家のかなしさも、痛ましさも、あるひは文章のいいひわけの多い近代調も、詩人の怒りも嘆きも、みな近代世界の文学のためにすでにたくはへられてあった古い「日本」である。
 ※ここを読んでいるとき、露伴の『幻談』、漱石の『夢十夜』、内田百輭などが頭のなかを通り過ぎていった。

別件
 Gへ
 30年ぶりに、リノ・バンチュラの『影の軍隊』をみた。今回はちゃんと録画していた。見始めてまずびっくりしたのはカラー映画だったこと。すっかり白黒だったと思いこんでいた。逆の例は何回かあるけど、たぶんはじめてのことだと思う。
 ただ、すべての画面が色調を思いっきり抑えてあって、実に美しかった。岩下志麻の『五瓣の椿』よりもっとくすみを持たせた丁寧な画面だった。
 一回目は字幕なしで、今回は字幕入り、もう一度みるときは音声ぬきで見てみたい。