スピネットでグールドを


 また学生時代の話になるが、最初に稼いだ金で中古のラジカセを買った。スピーカーは一つしかないけれど、ヘッドフォンだとステレオで聴けるというスグレモノで、ずうっと宝物にしていた。
 そのラジオから、「××の自動ピアノの演奏が発見されたので」と、ベートーベンのピアノ曲が流れてきたことがある。たぶん紙に穴が空いたやつが見つかったのだったのだろうと思っている。
 音の強弱がまったくない。音の長短もまったくない。ところがそれを聴いていて、「こんな曲だったのか」と猛烈に感動してしまった。それは、音楽というものへの考え方に大きな影響を与えた体験だった。
 現在でも、意識的にペダルを一切使わずに演奏するピアニストがいるという。その演奏を聴いてみたい。そしたら演奏家を通さずに直接作曲者と向かい合っている気がするかもしれない。
 似たような経験を大人になってからした。ある田舎の高校の学芸会(?)で、それこそ小学生がやるような調子で『夕鶴』を上演した。ただセリフが観客にとどくことだけに意識を集中させていた。――こんなに美しい言葉だったのか――来年度チャンスがあったら「朗読クラブ」をつくってみたいと思うようになったのには、それなりの理由がある。
 演奏者は楽譜をそれぞれに理解して演奏する。が、それが作曲者の意図とどれくらい一致しているのか譜面の読めないこちらには全然わからない。ただ聴いていて違和感を覚えたら聴くのをやめる。それしかない。その演奏者の理解の大きな要素が音の進行の仕方と強弱と長短と微妙なリズムのズレだ。それらに恣意的なものが感じられたら消す。そういう習慣になっていたはずなのに、ある日びっくりしてそのまま最後まで聴いてしまった。それがグールドだった。
 いまも彼のバッハを聴く。聴きながら、「この演奏をそのまままスピネットで聴いてみたい」と思う。思わん? そうしたらまったく違った感動を覚えそうな気がする。
 このデジタル時代なんだから、誰か思いついてCDを作ってみないかな。いや、原音さえあれば、もう素人でもパソコンで変換できるんじゃないだろうか。
 スピネット版グールドのゴールドベルグ変奏曲。パソコンに自信のある知り合いがいたら誘い込んでみて下され。


別件
 相変わらずルバッキーテのフランクばかり聴いている。
 滞る進行、跛行するリズム、そこから生じる音と音の隙間から聞こえてくるもうひとつの音。それらがすべてルバッキーテの計算通りなのだとしたら、彼女の才能がどれほどのものなのか見当がつかない。もちろんフランク自身が意図したこととはかけ離れているのかもしれない、しかし、そういう解釈をゆるす楽譜の豊かさを思う。(たとえばコルトーの演奏はまるでジャズのようだった。)
 たぶんフランクの楽譜には音楽的意図のほかは何もない。つまり、言語的意味は何もない。意味が何もないから、そこにはすべてがある。それは究極的な詩なのではなかろうか。
 今度、辻征夫の『俳諧辻詩集』の一部をコピーして送ります。

別件2
 最近作られたらしい映画『魔笛』をテレビでみた。モーツァルトがわれわれに残した最上のものはあのオペラのような気がする。