安田與重郎文庫(4)抜き書き―終―

『近世の発想について』補遺
 詩人が心をこめて云ふことばは、一つないし多数のことやものの結果ではなく、つねに原因である。――もっと丁重に云へば、過去の結果の全部または一部をうちに蔵め、しかも全然別な明日の原因となるものである。

GFへ
 保田与重郎文庫(四)をやっと読み終えた。結局ほぼひと夏かかったことになる。末尾の「承久拾遺」はもう抜き書きを省略する。「読め」と言っていた先生の意図が少しは理解できたかなと思うからそれで満足しよう。。が、もうこのくらいで逃げだす。なにしろ先住民の息子より1000倍くらい頭がよくて、100倍くらい執念深い人のようだ。後書きに次のような言葉が引用されていた。「戦争に敗れたことを残念がるものが、もし勝った場合には何をしたのだろう。・・・・日本の失ったものは、光輝ある名誉の他には、不義の栄華のみである。」やはりこの人たちは滅びたがっていたとしか思えない。
 自分にはこの人より、コピーを送った会津八一のほうが近しい。(今年は水無瀬から山崎まで歩いてみたいが、いつか新潟に行ってみたい)
 思い出したから書く。先生のまえで『ナンキン新唱』と言ったらすぐ『ナンキョウ』と訂正されたことがある。その程度だった。そのことを仏文の先輩に言うと、「それくらいマシンなほうよ。」と言った。あるとき「リンボウが」「リンボウは」と日本語訳で苦戦している学生に先生が言った。「お前な。お前だって一応仏文なんだからな。ランボウくらい読めるようになれよな。」
 若いころの恥、ではない。たぶん今でも似たようなもんだ。

 三月の巡礼の出発点をきめた。広島からはじめる。そこで先生と三鷹の婆の墓参りをする。それから市立大学に行って宮崎進の「人間」と、あとひとつ原爆記念館に行ってジャコメッティの「人間」に会う。最初に人間の全体像に出会った気がした彫刻と、今年知った人間の顔。そこからスタートしよう。

別件
 三年生の担任が運動会当日に出張が入ったので、「代わりをお願いします。」最終学年には仮装行列がある。仕方がないから授業のときに「花咲爺でもアンパンマンにでもなってやる。」というと、生徒がうれしそうな顔をして言った。
――うんにゃ。それぐらいのこっちゃ済まん。
 あとは当日のお楽しみ。