二の酉や

   二の酉やいよいよ枯るる雑司ヶ谷  石田波郷

GFへ

 ずいぶん前から、「思いだそう」「思いだそう」としていた句が先日布団の中でとつぜん甦ってきた。例によって、雑司ヶ谷がどこか他の場所でも同じじゃないのか、という話が出てきそうだが、「そうか、俳句とはこういうものか。」と感じた句だ。その「俳句」というもののイメージを、まるで見果てぬ夢のようにいまもみている。すっくと真っ直ぐ立った姿のなかに余計なものが何ひとつ含まれていない。余計なものが何もないということは、そのなかにすべてがあるということだ。時間も自然の運為も人の営みも、空気も光と陰もみなぎるものたちの気配も。そして未来まで。すべてのものがこの五七五のなかにはある。
 そして、たぶんまだ行ったことがない雑司ヶ谷になつかしささえ覚える。日本人が考えついた俳句とはそういうものなのだと思う。

別件
 例の仮装行列の準備が進んでいるらしい。
――生徒たちが先生の遺書を作っています。
――?
 「衣装」の聞き間違いだった。