昆虫記

 たまたま見たテレビに小沢の顔が出てきた。いい人そのもののような表情を見つつ、「この人はもう完全にぼけているんだな」と感じた。もう、物事の根幹を判断する能力を失っている。だから、これから国家の運命を担おうと足を踏み出したときに、あんな「ぼくはいい人です」という顔をしてしまう。
 少々ぼけたって生活できるように我々は作られている。だから、われわれのレベルであれば大して心配する必要はない。ただ、その人が国家のリーダーになろうとしている場合は、「あんたはぼけている。」とはっきり教えなければいけない。それを公の席で口にしたらしい人間が一人もいないというのはどういうことなんだろう。

 その理由のひとつは、いつの間にかここは「ぼけ」という言葉を相手に向かって使ってはいけない社会になっっているからだ。使ってはいけない言葉があると、そのこと自体がその社会から隠蔽されてしまう。いわば、タブーの向こう側に物事が秘匿されていく。
 あとひとつの理由は、それぞれの関係者たちが、自分の不利益になることを嫌がって物事を曖昧にする性癖が身についてしまっているからだ。
その代表例がマスコミだ。あの人たちの態度は、要するにヤジウマにすぎない。大変だ大変だと、大騒ぎをしてみせるだけ。それを「公平」という隠れ蓑で隠している。・・・なぜか、視聴者や読者が減ることを嫌がっているからだ。なぜ嫌がるか。自分たちの生活のためにその仕事をしているにすぎないのだから。大多数の支持を得ようと思ったら、当たり障りのないことだけを口にするしかない。
 人のぼけ方は大きく分けて二通りある。だいたい50も過ぎたら、誰だってぼけはじめている。ただ、その人間にとって周辺にあたる部分からぼけはじめる人と、肝心の部分からぼけはじめる人がいる。前者は、むしろ歳をとってから本当の仕事を残す。後者は他人に対する責任を果たすことができなくなる。小沢だけでなく、マスコミのお偉いさんたちももうボケがきているのに、直属の部下たちは「そのあと」のために黙っているのではないか。
 自分の記憶が間違っていないなら、学生時代にフランスで次のようなことがあった。
 ドゴールが何度目かの大統領選挙に名乗りをあげたときのキャッチフレーズは「ドゴールかアカか」だった。間をおかず、ル・モンドの一面に大きな活字が並んだ。「ドゴールよ。おまえがいなくなってもフランスは赤くならない」。ドゴールはそのまま引退した。
 自分の意見を鮮明にしないマスコミは魯迅が描いたただの野次馬だ。マスコミが頼りにならないならせめて一人ひとりが言おう。「小沢よ、お前にこの国を私物化する権利はないし、この国にはもうお前を養う余裕がなくなっている。」

別件
 9月に入って、つくつく法師以外のセミの声が復活してきた。あるいは、いつまでも暑いものだから、来年出てくる予定だったのがもう子孫を残す気になったのかもしれない。こんなとき花の場合は狂い咲きというが、昆虫の場合には何というのだろう。きっと、ちゃんとした名前がつけられていると思うのだが。