トンボがえりで今年も暮れた

GFへ

運動会が終わったあと、どうも熱っ気が取れていないらしい。冒頭の文句が頭のなかをエンドレス状態でぐるぐる回りしている。
「旅のつばくろ寂しかないか。俺も寂しいサーカス暮らし。トンボがえりで今年も暮れた。」・・・暮れて、だったかな。
山本太郎は、「人はみな途中なのだ」と書いた。若いころ、(それは、茅ヶ崎の6疊間と重なっている。)そのことばが何の障害もなく体に入ってきた。が、今、人はみな帰りたがっているんだと感じるようになった。それがどこかは分からないけれど。
帰りたいのに、これまたどこに行くのか分からないけど前に進むしかない。
その過程で我々は、少しずつキャラクターを捨てて行って、いずれはただの記号になることを心密かに願っている気がしてきた。そうすると、「秋はまづ目にたつ菊のつぼみかな」にうっとりするようになる。
何年前になるか、篠栗から乗ったタクシーの運転手さんのことばは前にも話したと思う。もうすぐ桜が咲きそうですね、というと、「何でですかなあ、若いころは何とも思わんやったとに、このごろは待ち遠しゅう感じますなあ。」と応じてくれた。「本当に、何ででしょうね。」あの運転手さんも、ただの点になりつつある自分を無意識のうちに受け入れていたのだ。
「秋はまづ」の句の主人公は去来ではなく、菊のつぼみだよな?去来はただの点なのだ。

別件
師走は、桂から嵐山に出て、それから日本海に抜ける、というはどうだろう?