降伏する能力

GFへ

 いつものように土曜日の夜を飯塚ですごしています。用心のために熱さましを持ってきたけど必要なかった。
 テレビではいま東京カルテット。それはいいのだが(とても好もしい演奏です。)、その前のNHK番組の内容が気になって仕方なく、せめてと寝転がってこれを打っています。
 番組は、「ワシントンでは原爆投下を阻止しようとする勢力のほうが大きかったのに、けっきょく日本に投下された。それは戦争終結を早めるためではまったくなく、ソ連に対してその威力を誇示するためだった。」という内容で、それだけでは何の新味もない。
 マンハッタン計画の中心人物だったバーンズが国家予算の20%を費やした以上、原爆を完成させるだけでなく、その有用性を実証するために時間稼ぎをしようとした、ということも既に知られている。
 今回の目玉は、「原爆投下阻止派は国務長官グルーを筆頭としたウォール街の利益を守ることを狙った連中だった。」ということにあった。
 同じ番組を見ているかもしれないから、話をはしょる。
 番組は、「原爆投下はほんとうに必要だったのかという疑問は(取材中のアメリカでは)ついに一度も聞くことはできませんでした。」というコメントで終わった。・・・・たったそれだけ? 金鉱山を掘りあてていながら、それだけで放置するなんて、なんという情緒性。・・・・あなたたちには、「アメリカで原爆投下に反対した者たちもいたけど、その動機は道徳的なものではなく、ただ金銭的な利益を狙ったものだった。」という情報が金の地金に見えたんだね。歴史には何の興味もないわけだ。いや、価値を見出ださないわけだ。
 もし、あなたたちが当時の日本の政治家や軍人や官僚だったら、やっぱり当時の連中と同じ情緒的行動をとるだろうね。だって、あなたたちは歴史の目の前に立つ機会を得ながら、そこから何ひとつ学ぼうとしないんだから。

 若いころから「あの戦争を避ける方法はなかったのか」と考え続けた。もちろん他のことに夢中になりながらその途中のわが人生の一千万分の一くらいの時間でですよ。だから、桶谷秀昭がその『昭和精神史』の末尾を、「日本にも優れた官僚たちがいたはずなのに結局、対米戦争を阻止しようとしなかったのは、『歴史的必然』という、まったく別の文脈で学んだ概念に束縛されていたからではないか。」という結論とも言えない語で結んでいるのをに出会って、なにか感動に似たものを味わった。
 が、数年前、方法はあったかもしれないと小島直紀から教わった。
 日露戦争アメリカ資本が、南満州鉄道の権益を売らないかと持ち掛けてきた。たぶんアメリカは植民地らしい植民地を持たなかったので、投資できずに金がダブついていたのだ。その金額は戦費を一挙に帳消しできる金額だった。乗り気になった若槻礼次郎は、さっそく根回しを図ってみた。「日本の若者の血で勝ち得たものを売り飛ばして金に代えるのか。」と総スカン状態だったので、さっさとないことにした。が、売国奴呼ばわりされながらもそのプランに固執したのが「政商」鮎川義介だった。かれは最後まで、「あれは個人の利益のためだけで主張したんじゃない。日本の国益を考えて主張したんだ。」と自説を変えなかった。
 もし、それを呼び水としてアメリカ資本を満州、ひいては中国に引きずり込んでいたら、以後の歴史の展開はまったく様相が違っていたろう。日中戦争に至ってもアメリカが要求しつづけた「門戸開放」とはそういうことだった。もし、日本が「稔った果実は山分けしよう。」とアメリカ資本を受け入れていたら、少なくとも日本とアメリカには利益をともにする大きな要素ができていたのだ。
 そうなっていたからといって、世界がいまほどにも安定していたかどうかは分からない。あるいは、あの不安定な時期がただ長引いただけかもしれないし、もっと酷い状況に陥ったかもしれない。
 が、アメリカ資本の論理は満州建国プランにとって大きな障碍になりえたことを考えると、日本の国連脱退はあの時点ではなかった。アメリカ資本と協同せざるを得なくなっていれば、アメリカと戦争することは避けられた可能性が高い。なにより、日英同盟廃棄後の孤立感から救われていれば、日本も思考停止に陥らずに済んだかもしれない。

 モルガンに代表されたアメリカ資本は日本に投資した金を回収出来なくなることを恐れた。はやく戦争を終わらせて、その金が生き返ることを狙っていた。
 どのくらいの金額だったんだ? 日本企業の株をどのくらい持っていたんだ? 投資を受け入れていた日本の企業はどことどことどこで、それは資本の何パーセントくらいにあたるのか? 日本のどの資本とアメリカのどの資本とが手を結んでいたのか? その構図は、戦後変化したのか、しなかったのか? 日本を封鎖する政策が実行される前に、資本を回収しようとしたところと、日本に残そうとしたところとの割合はどれくらいなのか? (ほとんどの資本は戦後を睨んで、投資した金をそのまま休眠させるほうを選んでいたのではないか? )
 知りたいことは山ほどある。それが政治であり、歴史そのものだからだ。
 が、NHKは、自分たちの仕事は修身の副読本のような番組を作ることだと思い込んでいるらしい。歴史は理念で動くべきだから、過去の歴史も理念で動いたはずだと思っているらしい。

 戦争終結――つまり日本の降伏――に原爆が必要だったかという設問じたいに何か違和感がある。
 いったい当時(沖縄戦直後)の日本軍部に、「国体」さえ護持されれば降伏する意志があったのか? いや、軍部だけではない。政治家たちにその能力があったのか? 先住民の息子は、なかったと考えている。すでに彼らは当事者能力を失っていた。当事者能力とは、「降伏する能力」を指しているつもりだ。
 鈴木貫太郎が「終戦内閣」の首班に指名されたのは何月だったか。戦後かれは、「自分の役割は分かっていた。しかし、軍部の反乱を起こすことなく終戦にもっていくのは並大抵のことじゃできない。最終的には天皇の御聖断を仰ぐ形にもっていくしかない。」と考えた、と語っている。閣議の構成員全員が当事者能力を失ったことを自覚するのを待った、というのだ。半分自慢話としても、その冷静さなしに降伏はありえなかった。
 実際に、いままでに自分が読んだり見たりしたことから想像を逞しくすれば、陸軍にとっては原爆よりもソ連の参戦のほうがこたえたかような印象がある。ただし、その前の数ヶ月に、天皇がどう考えていたのかは分からない。

 しかし、実は大多数のアメリカ人もまた情緒優先の人々だった。多くのアメリカ兵の血を流しながら「判定勝ち」では決して納得しなかった。トルーマンはそれに気づいて、日本を完璧に打ちのめしたことを劇的に演出してみせる必要を知った。その政治ショウのあとでなら日本のヒトラーを生かしておくことをアメリカ人も渋々みとめるだろう。天皇さえ自分たちが確保しておけば、たとえ原爆のふたつやみっつ落としても、日本ではアメリカの正統性が認められる。ついでにソ連をビビらせて以後の世界での主導権を握ることができる。
 一石三鳥を狙ってトルーマンは原爆を使うことにした。バーンズはトルーマンにとってはコマのひとつにすぎなかった。
 もし、設問が「原爆投下はアメリカの国益を損なったか?」であったなら、たとえ個人的には被爆者の言葉に涙した人々も、「いや。」と明確に答えるだろう。

 なんで知ったのかは忘れたが、ヤルタ会談のあと、ルーズベルトは次のように書くか話すかした。
 「ヨーロッパはロシアにくれてやる。アフリカはイギリスとフランスにくれてやる。アジアは中国にくれてやる。アメリカには太平洋さえあれば十分だ。」
 アメリカ大統領らしくない感情的な言葉だが、それだけに何か真実味がある。想像をたくましくすると、スターリンだけでなく、チャーチル蒋介石とも面とむかって戦後処理の話をしていると、「こんな奴らのためにオレはアメリカの若者を死なせたのか。」という気分に襲われたのだろう。
 「太平洋だけで十分だ」というのは、それだけで十分に食っていける、という意味だ。その太平洋のなかには日本が含まれていた。いや、いちばん大きな要素は日本だった。日本の潜在能力をもっとも高く評価していたのはアメリカなのだ。

 ちょうど二年前、ふたりで終戦特集番組を見ていると、母親が出し抜けに「なし、戦争やらしたとね?」と叫んだ。彼女の人生は戦争で大きくねじ曲げられている。なにか、慰めを言ってやるほうが良かったのだろうが、もとから融通のきかない男だもんだから、きまじめに「貧乏やったから」と、なんの救いにもならないことを呟いた。母親もそれ以上はなにも言わなかった。いま思い出してみると、何か脈絡のありそうな会話をしたのはそれが最後だったのかもしれない。

 「金もうけ」は社会の血流だ。国際社会においても同様だ。その血流が一方向にしか流れなくなったり、流れじたいが滞ったりしはじめたら、その世界は社会性を失う。そのことを、どちらの立場でも経験した我々が、歴史から現実主義を学ばないとしたら、この国に未来はないことになる。いや、単にこの国だけの問題ではない。もしこの国が現実を見据えて対処することを停止したら、それは世界中に不幸の手紙をばらまくことにしかならない。