世の中には二種類の人間しかいない。蕪村に狂う人と蕪村を知らずに終わってしまう人である。――高橋治

GFへ
 明治以来の流行語や流行歌の一覧表は、あちこちでの話の材料になった。生徒自身が「なつかしい」という。そんなものかもしれない。別の場所でその話をしているうちに、てっきり年上だと思っていた人が実は年下だったと気づく、なんてこともあった。
 自分自身は、1985年で、時代の流れからプッツリ切れているのに気づいて、あまりにも早かったんだと驚いた。もっとも、同じ教員だった男によると、中学の教員が「生徒たちのことが分からなくなった。」とぼやき始めたのが80年代だったというから、似たようなものだったのかもしれない。
 85年以降は、その「ぜんぜん分からん」ということをウリにして、教員生活を乗り切ってきた気がする。変に分からないほうが教育はかえってやりやすいと判断したんじゃなかろうか。もっとも「ブルース・ブラザーズ」を教わったのも、(今月スカパー!でまたあっていた。またもや最後までみてしまった。)森田童子の存在を知ったのも、二日市時代の生徒からだったのだから、もともとそういうことに疎かったのだ。
 考えてみれば、わが人生の前半は「分かられてたまるか。」で貫き通し、後半は「分かってたまるか。」でなんとか切り抜けてきた。別にそこまで肩肘張らなくても良かったろうにと、思わないでもないが、ま、年金暮らしに突入するところまで来られたのだから、下手な戦略でもなかったのだろう。
 さて、残りの三分の一はどうするかな? まだ何も考えていない。老人性ウツに入るのには、も少し早すぎる風情ではある。

別件
 尖閣列島の話は、もうあちこちで話が出ているから無視しようと思っていたけど、やっぱり気になるから一言二言書きます。
 ひとつ目は、やっぱりあの人たちは他人と会話をするということのできない人たちなのではないか、ということです。他人と話すときに肝心なのは、目の前で向かい合うということです。その「あの人たち」には、民主党の政治家だけでなく、いまの日本人の大半が加わるのかもしれない、と思うとけっこうゾッとなってくる。
 ふたつ目は、日本の民間人が(たぶん不当に)拘束されたというのに、「自分たちは政治的介入をしていない。」と公言するというのは、どういう神経なのかまったく分かりようがない。いや、たぶんあの人たちは自分たちのアリバイを主張しているつもりなのだ。「自分たちは、日本人を救うために何もしていない。」と高官たちが主張する国の政府っていったい何のためにあるんですか? 政府のもっとも重要な仕事は国民を守ること以外に何があると思っているんだろう。「ゴッコをやってるんじゃねぇぞ。」
 みっつ目は、たぶん彼らはあの事件について現実感がわいてこなかったのだ、と見える。ヴァーチャル世界で生きてきた人間たちがいまの日本の政治の中枢で、集団としての意思をもたないままにただ群れている。そして、現実感がわいてきたら、今度は一瞬にして思考停止状態に陥ってしまった。これはきわめて危険なことです。
 だからといって、他の政党にならまともな資質をもった政治家がいるのかというと、どうも覚束ない。相手に平気で自分の腹をさわらせる度量が具わっているヒトを見かけない。――別に日本に限ったことでもなさそうだが――いまの日本はそういう人間を育てようという教育をしているのだろうか。簡単なことなのだ。実際に手で触り合う時間を設けてやればいいだけなのだ。