五島みどり&井上道義

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 福岡に朝帰りをする列車のなかで、五島みどりのフランクを聴いている。
 ずいぶん長いこと加藤知子のお世話になっていたが、いまはこの軽やかさのほうがしっくりくる。どちらが正しいのかという問題ではない。人間は変わる。変わらないつもりでいても変わる。――もう20年くらい前か、「オレは朱に染まっても朱くはならない」と思った。じっさいに赤くならなかった。でも変わった。むちゃくちゃに変わった。――いまは、五島みどりのあえかなほどの軽やかさのほうが、おぼつかないほどのか細さのほうが自然な気がする。それは五島みどりという個性の獲ちえたものというよりは、彼女の出会った楽器によるところが大きいのではないかと思っている。彼女のもっている楽器から教えられたこと。その制約のなかで発見したこと。彼女はそれを最大限に生かしている。先住民の息子のこういう勘は信用したほうが得するんだよ。
 今朝は飯塚で目を覚ましてテレビをつけたら、井上道義の第九があっていた。ボロボロになってしまった。信じられないほどのゆっくりしたテンポで進行する。それは「逝くものはかくのごときか」を想起するほどの緩やかさだった。
 あれは「碧眼録」だったろうか。薪を売りに里に降りていく祖父が転ぶと、ついてきた孫娘も真似をして転ぶ。「なんで転んだ?」という祖父に「爺を助けようと思った。」と孫娘が答える。「だれも見ていなくてよかった。」その孫娘が可愛くて忘れられない。
だれも見ていなくてよかった。一度は井上道義を聴きにいきたいとも思うがやめておく。好きなだけボロボロになれるほうを選ぶ。それと同時に、かれと同じ時代に居合わせた幸運を喜ぶ。
 あとひとつ付けくわえる。合唱をしているおばさんたちを見ていた。いい女はたくさんいる。その予備軍はもっといる。(ということは、すべては男の責任だ。)あとは時間だ。いい女が育つには気が遠くなるほどの時間が必要だ。そのただ無為とおぼしきはるかな時間を持ち得るかどうか、問題はそこにだけある。われわれの社会がそれを許容しつづけますよにうに。そしてひたすら待ちつづける男たちがいますように。

別件
 大塚先生追悼の句がやっとできた。
       風ゆくや刈りのこしたる田の並木
               ――篠栗線車窓より――
別件の別件
 博多駅からの地下鉄で前の席に「いい女予備軍」を発見した。ほとんどすっぴん。昨夜はひと晩中なにをしていたんだろう。車内はがらあき、予備軍は目を閉じている。エロひひ爺は心ゆくまでじろじろ見ることができる。イヤホンからはフォーレのレクイエム。こんな至福のときが待っていたとは。まだうらわかき予備軍よ、きっといい時間をお過ごしなされ。