子路遇丈人


子路従而後、遇丈人」
 やっと今年の3年生も目標とするところまで辿りついた。「子路が、もう姿が見えない丈人にむかって言おうとしたことを分かりやすく説明せよ。」・・・・中には話し言葉で書いている者もいる。よかよか。
 「先生、もひとつ子路の言いたいことがはっきりしないんですけど」説明している途中で、「あ、そっか。OK。OK。もう大丈夫です。」・・・ま、いいか。
『直躬』、『叔敖陰徳』にはじまり、『鼓腹撃壌』をへて、『性善説VS性悪説』、そして今回。生徒たちはすなおにこちらの仕掛けにのってきた。どうやらここまでの2年半は無駄じゃなかったようだ。だったら、もうあとは彼ら自身に任せよう。
 ほんとうはあとひとつ、以前から『小国寡民』をなんとか教材にしたかったのだが、けっきょく間に合わないで終わる。こちらの能力が不足しているのだから仕方がない。
なぜ教材にできなかったかというと、一つには、学生時代にカンボジアで何が起こっているのかという情報を得たとき、すぐに浮かんできたのが高校で読まされたこれだったからだ。以前はそれを単に「無政府主義」と呼んでいたが、いまは「人為的原始共産主義」と呼ぶことにしている。すでに2500年前、都市文明に違和感を覚えたものはその『小国寡民』を唱えた。
 洋の東西を問わず、人々は疲れてくると「還り」たくなる。そこは「機械がなく、貨幣もなく、差別もない」甘美で自由な世界だ。文化大革命の中国や、クメール・ルージュカンボジアではさらに「識字階級」への憎しみまで露骨になった。
 その「還り」たい衝動――文字への違和感――は大きな文学的動機になっていく。そのあたりのつながりを高校生にどう説明するかが、教材になり損なっている、あとひとつの要素。
 まあ、よかろう。学校の授業だけが生き甲斐だったわけでもない。自分なりに納得できることが浮かんだら、また報告します。

別件
 後期にはいって、中年の英語教員が出戻りで姿を現した。合図をすると、
――まあ、××先生、あたし、実家にもどってきたみたいです。