楽譜には肝心のことが書かれていない。

GFへ
 昨日の新聞に庄司さやかが出ていたので、一筆啓上。
 「楽譜には肝心のことが書かれていない。それは(どんな)音(色なのかということ)です。」その音を見つけるためには長い時間が必要だから、そういう演奏活動をしていく、という。
 以前に書いたけど、庄司さやかを聴き始めたころ、その演奏に個性を感じないのに戸惑った。戸惑ったあげく、それが本当の天才なのだ、とわかった。そして、「いま学んでいる先生から、ロシアの音楽はロシア語で、ドイツの音楽はドイツ語で演奏しなさい、と教えられている。」という言葉に──ロシア語もドイツ語も知らないまま──納得した。
 彼女のチャイコフスキーを聴いたのは2年ほど前だったか。それは「感動」というものを超えた体験だった。そしてその興奮をみんなに──こっちが勝手に『ふらう』同人と思っている連中に──「庄司さやかの弾き始めるバッハは、まだ世界で誰も聴いたことがない音になる」と伝えた。それは、絶対的な自信のある確信だった。その確信はいまもまったく揺るいでいない。いや、彼女自身がその音を見いだすための長い長い時間を惜しむ気がまったくないのだと知ってほっとした。それは、先住民の息子風に言うなら、「たとえその途中で斃れて、その音にたどり着けなくとも悔いない」心だ。よろこびはその途中、途中にある。

別件
 Fよ。19歳のころの先住民の息子は竹西寛子を読んでいたんじゃない。聞いていたんだ、という話を、もうそろそろ信用しなさい。