リアリズムということ

GFへ
 前回の「庄司さやかの演奏に個性を感じなかった」という話について、「だから天才だ」までのつながり方が乱暴な気がするので、付け加えます。とは言え、例によって昔話から。
 大学にはいってみると自分で受講科目を選べるのが嬉しくて、あれこれ面白そうな講座を受けた。何年目かに事務から呼び出しの札があるのに気づいて出ていってみると、「君はね、たくさん単位をとっているけど、今のままでは卒業できないよ。」肝心の日本文学科の単位が少ないというのだ。そんなこと誰も教えてくれなかった。
 そんな中で、演劇科の山内××先生の『リアリズム論』を何度か聴いた。なんの話か分からずにもやもやしたが、あとになって、「要するにあの人は、”まだリアリズム演劇などというものは生まれていない。そのありもしないリアリズム演劇について、人びとはあれこれその是非を論じている”と言いたかったんだ。」と気づいた。
 そう、多分そうなのだ。
 あるとき、俳優座の村×××さんのことばをパンフレットで読んだ。村×××さんは、たしか村田喜代子原作、黒澤明監督『鍋の中』で主人公のお婆さんを演じていたように記憶している。あるいは、映画の題名は違っていたかもしれない。
 「理想的な演技とは、お客さんが”あれ、今日、村×××は出てなかったね。”と感じた日だ。」というのだ。・・・・なるほど、それがリアリズム演劇というものなのか・・・・。
 個性を感じないというのは、そういうことを指している。
 この話は一度したよね? なんかそんな気がしてきた。

別件
 机の横に青山学院のパンフレットを置いている生徒がいる。授業中そのパンフレットが床にバサッと落ちた。「わあ、落ちたあ。」と声をあげたあとに、こちらをチラっと見ながら付け加えた。
──ま、明治もあるからいいか。