ことばの力

GFへ
 『小国寡民』からクメール・ルージュの話になったあと、気になることを思い出したので、またつづける。
 ひと昔まえ、とは言っても10年までは経っていない。
 テレビで「私たちは信じます。ことばの力を、」(なんと倒置法!)
という朝日新聞のコマーシャルを聞いてぎょっとなった。なぜなら、そのとき連想したのは、クメール・ルージュの子ども達と紅衛兵だったからだ。
 朝日としては多分、以前に話した、ド・ゴールル・モンドの場合のようなことを頭においていたのかもしれない。──ド・ゴールよ、お前がいなくてもフランスは赤くならない。──が、あれは、ル・モンドの言葉が勝ったわけではない。信用が勝ったのだ。ド・ゴールなしでもフランスは自由社会にとどまる、という決意を表明した、その信用が勝ったのだ。
 もとに戻るけれど、新聞社が「ことばの力」を信じたら、それは自殺行為だ。そのことばに、もし力があるとしたら、それは、そのことばが真実ではないからだ。「事実」や「真実」はなんの力も帯びてはいない。ましてや力を増幅させる触媒としてのはたらきはない。──そんな新聞をあの人たちは一度でもつくったことがあるのだろうか。──力のあることばとは、それがすでに文学である場合だ。文学的パワーにたよるジャーナリズムとは、それだけでもう自分の足だけでなく内臓まで食って生き延びているオクトバスのようなものだ。いや、ようなものだ、ではなく。そんなオクトバスそのものだ。
 「無力なことばしかもっていないけれど、こつこつと新聞をつくりつづけます。」と、なぜ言えなかったのか。それが不思議でしかたがない。
 大昔の話をまたする。
 大学を出たてのころだ。ある夜、NHKのニュース解説みたいな(たぶん)臨時番組で、解説者だった山×さんが、日韓問題について、「日本の政府は、まず、朝鮮動乱を引きおこしたのは南なのか北なのか明確にするべきだ。」と発言した。40年前の風潮ではまだそれを口にするのは憚られた。だから、どの新聞も態度をはっきりさせずにいた。もちろんNHKも。
 松本清張の現代史物では、その記述をおっていけば明らかに北側が攻めてきたと読み取れるのに、最後に「私は南が・・と思っている。」という文章がトウトツに出てくる。・・・コイツはウンコやん。
 じゃ、おまえ自身はどう見ていたんだ? という話なら、割と単純に見ていた。「緒戦に勝ったほうが、戦端を開いたほうだ。」が、その単純なことが当時の「さしずめインテリ」階層では通用しなかった。

 夜中にとつぜん始まった番組を粛然となって聞いた。山×さんが亡くなったのはそれからあまり経たないころだった。
 同じ頃、朝日新聞は「現行の自衛隊は非武装という憲法の範囲内で合憲という憲法解釈にし、現行憲法を護ろう」という社説をのせた。それまでの自衛隊違憲論から大きく舵をきったわけだ。それだけでビックリしたのだから、それまでの風潮は現実とは離れた夢物語のようなものだったのだと思う。
 ことばに力があるとき、それは現実がわれわれから遠ざかっているときなのだと思う。

別件
 絶滅危惧種と先々の話をした。チビたちよりこっちのほうが先にこの世からいなくなる場合もあるから、そのときのために準備をしておこう。
――遺言をちゃんと書いて、弁護士さんに預けとかないかんと思う。
――チビたちを最期まで世話してくれる人に渡す持参金をつけとかないかんな。
――うん。
――50万ずつでいいか。
――なん言いよるとね。
一匹あたり100万円にすべきだ、そうな・・・・。