演ずることについて

GFへ
 今週は変則授業。「さて、受験生に何をやらせようか。」とファイルを繰っているうちに大昔のプリントがでてきた。「よし、今のうちに思いっきりダルいこれをやらせよう。」その最後に、小論文型の問題をつけくわえて、考え方を紹介している。
 たぶん、一度送ったはずだと思うけれど、すでに20年以上まえにこんなことを考えていたのかと思ったので、ここに載せます。

『社会での「演劇性」の役割について』
◎ゴッコと教育
 子どもの遊びのなかにある「ママゴト」や「○○ごっこ」は、子どもたちが他の何者かを演じあう遊びである。他の何者かになりかわることに子どもたちは大きな喜びを見出す。そのなりかわる「何者か」のイメージが次第に具体化し、深化し、高度化していく過程を成長と呼ぶ。
 ゴッコはけっして子どもだけのためにあるのではなく、「民主主義ごっこ」が国会で演じられたり、「平和ごっこ」が国連で挙行されたりもするのである。
◎まねることと学ぶこと
 学ぶことは真似することからはじまる。まねるとは、自分ではない他者のする通りにしようとすることであり、演技することに他ならない。演技し、ホンモノそっくりに真似られることに自信を持ち始めることと、自我に目覚めることは並行して進んでいく。
◎ことばの成立と演技
 われわれはことば以外の手段によっても表現することができる。目つきや表情や身振りなどがそれである。親指と人差し指で輪を作れば、それは「金」もしくは「良い」を意味する。しかし、その指はあくまで指そのものなのであって、指が「金」や「良い」に変化したわけではない。親指と人差指とで作られた輪は、「金」や「良い」を示す記号の一種である。「金」や「良い」もまた、「金」や「良」そのものではなく、「KANE」「YOI」という音にすぎない。われわれはそれらの身振りや音や絵で差ししめされる物ごとを、あたかも、それらの記号が指し示ている物ごとそのものであるかのように受け取り、そのものであるかのように振る舞いながら、他者とともに生きている。
 「○○のようだ」と「みなす」感受性の獲得が人類を他の動物から抜きんでた存在にし、「ようだ」を使わぬ隠喩の発明が、人間にとっての世界を豊穣にしてきた。
 言語を使うことは、この人類がことばを獲得してきた過程を繰り返し追体験することなのであり、演技者(そのものであるかのようにふるまう人)でない話者はありえないのである。

◎コミュニケーションは論理だけでは決して成立しない。
 われわれは普段、ことばによって意志の疎通を図っているわけだが、実際のコミュニケーションにおいては、ことばそのものの持つメッセージとしての役割はそれほど高くない。「今日は温かですね」「ほんとうに温かですね」という会話において、実際の気温が前日と比べて何度高いかはほとんど互いの関心にはない。むしろ、日常的な「寒さ」や「冬という季節」を共有していることを確認しあうための会話なのであり、もっと単純化して考えるなら、お互いに無視しあう気はなく、気楽に大して意味のない会話ができるほどの親しさなのだということを表現し合っているのだとしても一向に差し支えはない。つまり、「今日は温かですね」は、まったく同じ状況で逆の「今日は寒いですね」であっても、二人が意志の疎通を図るうえでは何の障害もないことになる。
 われわれはことば以外に、表情や語調や声色や身振りや、さまざまのコミュニケーションの手段をもっている。それらの手段を無意識のうちに同時に使いこなして、他者と同じ場にいる(おなじ土俵にあがっている)ことを確認しあいつつ、意志の疎通をはかる。その他者との共通の場とは一種の舞台そのものであり、同じ舞台にあがっていることを確認しあうことは、お互いが演技者であることを確認し、許容し、そうすることで論理だけの会話ではない会話を成立させるための或る特殊な空間を作り出そうとしているのである。

◎劇場空間としての社会
 学校、会社、地域社会。それらはそれぞれがひとつの劇場の舞台であり、そこにいる間、各自はそれぞれの役割を演じ、他者はかれの演技を演技としてではなく現実そのものとして受け取る約束ごとのうえに組織や地域社会はなりたっている。さらに社会全体に目を広げるなら、人々は時には演技者、時には観客の立場を無意識のうちに切り替えているのである。

◎義務としての役柄
 父や母が「親」としてふるまうのは、一種の義務感にもとづいている。それぞれの人間がみずからの立場を意識し、その立場を守ろうとするのは一種の演技であるが、それらは崇高な演技である。演ずることを義務とする文化が存在しない社会はありえない。あるとしてもそれは「無政府(アナーキーな)社会」でしかない。

◎演劇化することでの自己確認
 巨大な社会の小さな歯車でしかないわれわれにも人生はある。その己の人生というドラマのなかでは、たいていの場合、自分を主人公として意識することができる。大会社の一社員にすぎないAも、Aの人生劇のなかでは主人公であり、Aの会社の社長は単なる脇役として意識される。その同じAが家庭にもどったとき、主人公は生まれたばかりの赤ちゃんであり、Aはその脇役となることに喜びを覚えもする。
 われわれは常に複数の劇をみずから創作しつつ、その劇のなかで生きている。「人生観」と一般に呼ばれているものは、この各人が自分のために作り出す劇のことである。

◎「歴史」のもつ演劇性
 歴史とはさまざまの単位の人々や社会について記し残されたもののことである。われわれはそのうちの幾つかの重なり合う単位にふくまれる歴史的存在であることを免れえない。
 歴史には始まりがあり、どこかの時点で終わりもある。「歴史的存在である」とは、その中途での登場人物とならざるをえない、ということである。われわれは或る(もしくは幾つかの重なった)筋書きの中途に突然登場し、どんな筋書きの中途なのかを自分で探りつつ──じつはそれが「普通教育」の眼目なのだが──ともかくもいまの状況を把握してどういう役柄を演じるかを考えつつ何らかの身のこなしや科白を為さねばならない。つまり、常に「歩きつつ考え」るしかない。たとえ、われわれが科白をはくことや行為することや決断することを拒んだにしろ、それがわれわれの「演技」そのものになるだけであって、われわれは決してこの「劇」から離脱できないのである。

別件
 昨夜、庄司紗矢香のベートーベンを聴いた。膝小僧をかかえてSPレコードを聴いているような不思議な感覚だった。