いつか長谷寺に行こう

GFへ
 一週間前にちょいと熱が出て、大したとないだろうと高をくくっていたら先週の土曜日から寝込んでしまった。小学校のときも、土曜日から寝込んで月曜日の朝には熱が下がり、何か損をしたような気分で学校にいくことが多かったから、またそのパターンかと思いきや月曜日も布団のなか。歳ですなぁ。
 が、ともかく奈良の話。
 今回の旅は、奈良大学文学部の上野誠教授が企画と案内を引き受けてくれた。(その企画のなかには、夕食の場所が奈良市内にある河島英吾の奥さんがやっているカフェで、そこに飛び入りで神戸大学合唱部の女の子たちデュェットが加わる、というのまであった。)彼は福岡出身。子どもの頃いじめられっ子だったそうで、今大濠高校で教員をしている兄貴分がいつも守ってくれた。そのことを50過ぎても忘れずにいる。だから、兄貴分から、「今度、福岡市の教員の面倒をみてやれよ。オレも行くから。」と言われると二つ返事で引き受けたとか。・・・そういう人間関係が21世紀にもつづいていると知っただけでも行った甲斐があった気がする。
 その兄貴分について、Gにしか通じない話を付け加える。和田という。数年前にはじめて一緒に飲んだとき、配偶者は城南にいるというので、「同じ国語か?」と訊くと、ちょっと間があって、「たぶん、あなたの知っているのはエンゼル和田だと思う。城南の国語科にはふたり和田がいて、うちのはデビル和田と呼ばれています。」というので大笑いになった。そのデビル和田はかなり有能な人らしい。一方の兄貴分のほうも、母校の大濠で教育実習をしたところ、その場で「履歴書を書け。」と言われて、次年度の採用が決まったという人物だ。(もちろんこんな話は全部他の者が教えてくれた)
 正倉院展は2時間待ちのところを教授の顔で45分待ちで済んだが、とにかく人が多すぎて疲れただけ。ただ、道鏡の字があって、見た者は口々に「イメージが変わった」という。それくらい雄渾な字だった。大極殿跡にいたっては数万単位の万博会場なみの人出で、とてもじゃないが「ものもふらしも」の気分を味わうどころじゃなかった。今度行ったときは、代わりに川原寺跡を歩こう。小さな空間だけどそこには人影がまったくなかった。
 白毫寺には一度足を運ぼう。奈良全景が一望できる。多武峰はきついから我々はカット。
 三輪神社のそばで食ったにゅう麺は真冬に食ったらさらに旨かろうという一品だった。よほど幸せそうな顔をしていたのだろう、上野先生が「お好きみたいですね?」と声をかけてくれた。今度行くときは前もって、お酒が少し飲めるかどうか確かめておく。
 
 いつもながら前置きばかりが長いけど、今日話したいことはここからが本番。
 長谷寺に行った。特別拝観中とかで、何メートルあるかわからない観音様の足下に入れてもらえた。その観音様の足に触りながら願い事をしたらかなうというのだ。で、言われた通りに額づき、手を差し出して足にさわって祈った。――ちゃんとあんたたちの分まで祈ったけんね。――その、「仏にすがった」気分が忘れられない。跪拝するとはこういうことかと感じた。けっこうすがすがしい気分だった。
 ここから話は一気に跳ぶ。
 偶像崇拝という。
 われらが日本仏教は偶像だらけである。まず偶像ありきだった、という説がまるっきり自然に聞こえる。ヒンドゥも偶像だらけ。カソリックも偶像だらけ。・・・・一方、イスラムプロテスタントは偶像を否定する。その偶像なしの文化同士が正面から向かい合ってしまうと、ベアナックルで相手を屈服させようとするしかない。
 偶像という我々と偉大なるものとの間に立つものがある文化と、中間物を持たない文化の違いは結構大きいのかもしれない。さらに、手で触れる(撫でる)文化と、触るものを持たない文化に至っては、まるっきり違うもののように感じる。
 話はさらに大きくなる。
 露西亜には偶像文化・撫でる文化が復活した。イスラムプロテスタントも、なにも撫でられるものは持たなくとも偉大なるものの存在を信じている。(少なくとも否定はしない。)では、中国は? 先住民の息子には、あそこが壮大な空白に思えてきたんだけど、如何?
 
別件
 『ちょっと古い日本語』を生徒にやらせている。けっこう乗ってきた。が、最初はちょっとしたパニックで教室中が騒然となった。
――知らん。
――これ何?
――聞いたこともない。
 やっぱりもう、こういうことをやらせる必要が出てきたのだ。その「聞いたこともない」ことばの最たるものは「さもしい」だった。
テレビのニュースには、さもしそうな表情をした男や女たちが毎日顔を出す。もはや日本人にとって「さもしさ」は当たり前のことになって、特別に表現する必要性がなくなったのかもしれない。あと2〜3年もすれば広辞苑から消えるのかな。――まさかもう消えてはしないでしょうね?――そして、あと10〜15年もすれば、「はずかしい」ということばも広辞苑から姿を消して、「ちょっと古い日本語」になってしまうのだろう。