藻谷浩介『「デフレ」の正体』

GFへ
 読みはじめたところで、見切り発車して報告した、藻谷浩介の『「デフレ」の正体』(角川oneテーマ21)を読み終えて、興奮しきっている。
 ほんとうは、先週の授業で説明したことを文章のなかで具体的に示すプリントを作らなければ気が済まないのだけれど、それより先に頭のなかで動いていることを報告する。
 それは、相手にしてもらえるかどうかなどはどうでもよく、やっと議論できる相手を見つけた、という興奮だ。大昔、俊を知って、「友だちになりたい」と思い、追いかけ回して本当に友だちになった。そういう出会いを経験した気がしている。
 これまで、文章やテレビで相当数の経済学者やアナリストを知ったが、誰ひとり「この男のことばに耳を傾ける時間を作ろう」と思った相手はいない。ましてや、議論したいと思ったことも一度もない。何故なら、その言徵は「自分の得意のものの見方」からしか物を言っていないからだ。かれらは決してそこから出ようとはしない。だから、テレビで行われていることは議論の体をなさない。互いが自分の巣穴から言葉を発しあっている、いわば、「山椒魚」的様相を見ているだけだった。「ファンダメンタル」がないのだ。ものを考えるときに最低限必要な基礎がないのだ。互いの基礎が食い違っているとき、議論は成り立たない。それどころか、大抵の場合は、その自分の基礎を相手に見せようとせずに、意見だけをぶつけ合う。その基礎がたんなる思いこみや狭小な立脚点であることが露呈しないように気を配りながらものを言っているのだから、もともと議論する気などないのだ。
 数年前、サントリー○○賞をとった寺島実郎の本を読んでアッケにとられた。その本は、「色めがねをかけて見たら、風景は何色に見えるか」という実験結果を報告しているに過ぎなかった。その本に賞を与えた選考委員のは見識なぞまったくない。いや、彼らも寺島と同類、同等だということが分かった。(そのときの選考委員の実名を知りたいと思った。そのメンバーの日本語につき合うのは限られた人生の無駄遣いになるから)。ところが、わが絶滅危惧種はその寺島実郎の顔をわっちより先に知っていた。「テレビのワイドショウに出よる人やろ?」いったい恥ずかしげもなくどんな面をして出ているんだ。「ミンシュ党のブレーンらしいよ。」「分かった。だったら日本の外交はもうメチャクチャになる。」
 思いこみの激しさでは、先住民の息子は誰にもひけをとらない。が、そのことを知っているから、現実は現実としてただ解釈せずにそのままに受け取る癖がついている。もともと生まれた場所は、ゲンジツがむき出しになっているところだった。だから、ゲンジツが大嫌いになった。そのゲンジツ以外の世界がほしかった。(わっちは、いまだにばあちゃんに感謝している。ばあちゃんの教育方針はただひとつ、できるだけ孫にはゲンジツを見せないようにすることだっから。その大きな心とあったかい体で可愛い孫を庇いつづけてくれた。お陰で結構素直に育つことができた。いまの親たちに、我がばあちゃんほどの気概の持ち主がいったい何%いるんだろう。いや現実を教えることが親の勤めだと信じ込んでいる親のほうが多い気がする。自分の子どもを傷つけるだけなのに)しかし、ゲンジツはこっちを手放してはくれない。だから戦略を編み出す必要にかられる。そんな62年間だった。(Fにとっても、Gにとっても似たようなものだったんじゃなかな)
 現実ぬきに、基盤なしに物を考えることが可能だと思っている人種がただ不思議だ。だから彼らを寅さんのことばを借用して「さしずめインテリ」と呼ぶこにした。吉川幸次郎流に言うなら、「辞書なんかあてにするな。原典にあたって、その言葉が実際にどういう使われ方をしているのか確かめろ。一冊じゃ足りない。それぞれの人間が、そのことばをどういう意味で使っているかを確かめてから物を言え」ということになる。それが本当の学問のあり方、なのに、大半の人間がもうそうしようとしない。だから、たてまえ同士が議論にしているふりをする。弁証法的でない議論は、議論ではない。
 正直いってこれは、教育の失敗なんだと思うよ。根本的な失敗なんだと思うよ。戦後教育ではなく、近代教育そのものの失敗なんだ。優れた人物は、その自分の受けた教育を反面教師として、「自分」を作った人だけだと思う。あるいは、その現場で、吉川幸次郎のような人物に出会う好運に恵まれた人もいるだろうけど、その好運を生かした人もまた少数派だろう。
 そんなことはとっくにお見通しだった。経済ガクシャもアナリストも政治家も、話をしてみたい人物なぞおらん、と思っていた。(例外は渡辺美智雄くらいかな。)『「デフレ」の正体』を読んでショックを受けたのは、実は大半の企業経営者もまた例外ではないらしい、ということなのだ。「この国はあぶない。」もちろん例外はある。西武(兄貴のほう)は、「これからは、モノではなく文化を売るんだ」と営業戦略を変えようとしてアメリカ資本に膝を屈する結果になった。ソニーは「もうメーカーとは呼ばせない」と、アメリカの映画会社を買収したりして大赤字に転落し、また物作りの会社に戻ろうとしている。
 この国に足りないものは何か。を、藻谷浩介は明確に示してくれた。
 現実を、現実のままに(ことばを挟まずに)見るみる目だ。自分の目を現実に開放する自己教育だ。
 その後の処方箋も書いている。その部分には議論の余地がある。が、彼の提示したゲンジツを基盤にするなら、議論が可能になる。
 もし、この本がベストセラーにならなかったら、この国の未来はただただ暗い。そして、その可能性はかなり高い。が、「もうダメだ」と書かなかったのは、日本の中間より少し下にいる人びと、昔の言葉でいうならブルーカラー、もっと昔の言葉でいうなら下士官クラス、の底力にまだじゅうぶんに頼むところがあると見ているからだ。もともと日本人の創造性は、日本の創造的文化・創造的文化遺伝子は地下人のなかに受け継がれている。
 いま言えることは、おりこうさんのさしずめインテリたちをあてにしている時間的余裕はもうこの国にはなくなったらしい、ということだ。次世代よ、覚悟せよ。・・・いや、次世代は全共闘世代よりもっとひどい。次々世代よ、先輩の立場なんか無視してさっさと追い越して立ち上がれ。いくらでも応援する。

別件
 雷山観音は、もともと、千如寺のうえにある雷神社にあったのに、明治の神仏分離令によって、下の寺に移されたのだそうだ。観音様が神社にいらっしゃったなぞ最高だ。この国大好き。Fが来たときは主を失った上の神社までのぼってみよう。