パラダイムがソートされる

GFへ
 そろそろ区切りをつけないと、他のことが手につきにくいので、例のパターンで終わらせます。
 高校一年のとき『永訣の朝』の授業で、「愛するモンが死にかけとるときに、詩やら書けるとですか?」と質問した同級生がいた、という話は何度もした。それに対して酒見先生が長い沈黙のあと、「書いたんですよ。」とだけ言って教室を出ていったことも繰り返し話した。
 そのことは、以後の先住民の息子の生き方に少なからぬ影響を及ぼした。たぶん、本人はとっくに忘れているだろうけど、自分を失わずに生きるには何がしかの覚悟が必要だと教えてくれた柔道部の(のちに中量級九州チャンピオンになった)中村には、大きな感謝を持ち続けている。
 大雑把にいえば、以後、「文学や現実と、つかず離れず、近しいところで」にいながら「文学に染まらず、現実にも染まらない」生き方をすることを、この男は選び続けてきたつもりだ。そして今、それらをすべて加減乗除すれば必ず一になると思うようになった。(すぐれた文学自体も、音楽も、絵画もまた、それが本物であるということは、完結しているということと全く逆の意味で一になる。・・・本当は0になると言いたいのだが、上に加減乗除なぞ似合わない言葉を使ったので仕方なしに、一にした。)それはもう信念を通り越して、一種の信仰になりつつある。
 大学に入って早々のころ、思想史か何かの先生が、われわれの質問を聞いてきょとんとして、「世界観をもっていない人間なんていないよ。君たちももうちゃんと世界観を持っているし、文字をしらないアフリカの狩猟民も世界観を持っている。でないと誰も生活していけないだろう?」と返事をした。それを聞いてはっとなった。はっとなったということは、その瞬間に、いわば自分のパラダイム全体にソートがかかったということだ。
 似たようなことで逆のことが起こったときのことは、これまでに何度も話した。
 西洋人が書いたものを読んでいて、その中の「認識」という言葉がなんとも理解できなかった。何度も読み返している内にやっと、そうか、この人達にとっての「認識」は文字通り「視認」だけを指しているんだ、と悟った。これは、びっくりするようなことだった。つまりこの人たちが世界について考えるとき、聴覚も触覚も味覚もまったくい意識されないということだったから。──自分にとって世界を考えるときもっとも中心的なことは、触覚だった。というか、世界を感じるとは、風を感じることだったし、風を見ることだったように思う。(今でも、手のひらと足の裏は自分と世界の接点だと感じている。夜、布団に潜り込んだあとで、足の裏どうしをこすりあわせると、体中の神経がよみがえる気がする。これは試してみる値打ちがありますぞ。)──「こんなものの考え方をする人間たちがいたのか!」
 以後、西洋のものを読むのがずっと楽になった。たとえば、音楽の対位法の発明も、視覚的要素(読み、書く、見ること)からはじまったのではないか、と考え始めている。
 今回、「景気の良い悪いにもっとも影響を与えるのは、お金を稼いでいる人の(その稼ぎの高ではなく、割合でもなく、)人数の絶対数の増減だ。」という藻谷浩介氏の意見は、まさに、目からウロコ、だった。
 それは同時に、この本を紹介してくれた男と、「もっとも肝要なことは所得を増やすことじゃなく、雇用者数を増やすことだ。」と意見が一致して、「ブログかツイッターでこのことについての意見交換の場をつくれ。」と煽っていたことにピタリと符合した。──そのとき一致したことは、さらに、正規雇用者と非正規雇用者の所得に差がありすぎる。正規雇用者の分を減らしてでも非正規雇用者に回すべきだ、ということもあった。おおざっぱに言うなら、退職金制度を廃止すれば、雇用に流動性が生じる。そのほうが人びとの暮らしにゆとりが生じるというのが、二人の一致点だ。
 いまの日本はあまりにも窮屈すぎる。その中で、Fは一度職種を変えた。Gは三回職場を変えた。わっちに至っては何度職種や職場や住所を変えたのか本人も数える気がしない。が、その人生を賭けた選択は、三人とも幸運に恵まれたし、振り返ってみれば当然のことだったように見える。が、大半の人は我慢して同じ職場に居続ける。その流動性のなさが、この社会の安定をもたらしていた、とは思う。それは、より多数の流動人口(自家営業者、自由労働者)がいたからだ。サラリーマンだらけになったいま、流動性のなさはこの社会の閉塞感を強めるはたらきだけを果たしている。
 実際問題としては、企業はさまざまな優遇措置によって正規雇用者の忠誠心を作りだそうとしてきた。が、もう、そのこと自体が企業にとって大きな負担になってきているのではないか、と考えている。──だから、彼は、「読みませんか?」と誘ってくれた。
 世の中が大きく変わろうとするとき、それを一番怖がるのは実は若者たちだ。その若者たちに勇気をわかせること。もう少し、その役目を果たせたら、と思い始めている。