堀田善衛「定家名月記私抄」Ⅱ

いつしかと外山の霞立ちかへりけふあらたまる春のあけぼの
若菜つむ都の野辺にうちむれて花かとぞ見る峯の白雪
鶯は鳴けどもいまだふるさとの雪の下草春をやは知る
大空は梅の匂ひにかすみつゝくもりもはてぬ春の夜の月
みちの辺に誰うゑおきてふりにけむ残れる柳春をわすれず
霜まよふ空にしをれし鴈が音のかへるつばさに春雨ぞ降る
面影に恋ひつゝ待ちしさくら花咲けば立ちそふ峯の白雪
春を経て雪とふりにし花なれどなほみよし野のあけぼのの空
桜花うつりにけりなとばかりを歎きもあへずつもる春かな
春の夜の夢の浮き橋とだえして峯に別るる横雲の空
年ふともわすれむものか神風やみもすそ河の春のゆふぐれ
行く春よわかるゝ方も白雲のいづれの空をそれとだに見るむ

後白河第二皇子仁和寺守覚法親王への詠歌50首のうち春12首。

 これを長々と引いた理由はただひとつ。読んでいるうちに蕪村がだぶってきたからだ。

君あしたに去ぬゆふべの心千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行きつ遊ぶ
岡のべ何ぞかく悲しき
たんぽぽの黄になづなの白う咲きたる
見る人ぞなき

 すでに定家において、連歌という対位法は懐胎していた。
 堀田善衛自身の説明は、いずれコピーを送る。
 堀田その頃60余歳。その口語日本語は史上最高水準を迎えている。これほど読んでこころよい散文は記憶にない。と同時に、まるで追いつけないその桁違いの学識に対して、みずからの無学を恥じるより先に、爽快ささえ覚える。
 まだ半分ほどしか読んでいないのだが、先回りして後記を引用する。

後記
 歌人藤原定家の日記「名月記」は、いわば幻の書である。
 多くの人々がその存在を知り、それが晦渋な漢文で書かれているために、通して読む人はほとんどいなくて、しかもこの日記からの引用文ばかりが国文学や国史の研究書に、実に頻繁に引用されている。あたかも名月記は、引用されるためだけに存在しているかの観があった。
 誰もがその名を知りながら、小数の専門家を除いては、誰もが読み通したことがないという、それは異様な幻の書であった。
 戦時中からの四十数年間、私はぽつぽつとこの幻と付き合って来た。ここに、定家十九歳から四十八歳までの記の私抄を世におくる。
 執筆はすべてバルセローナにおいてなされた。
 
   一九八六新春     逗子披露山荘にて


別件
 今日から黄海で米韓合同軍事演習が開始されるという。今朝の毎日新聞に五百旗頭防衛大学校長の訓辞が載っていたので、あとでいっしょにコピーを送る。
 前回の哨戒艇撃沈事件についても、今回の砲撃事件についても、同じ感想しかない。韓国の平和ぼけ、繁栄ぼけは、政治家のみならず、軍部にまで及んでいる。
 日韓併合以前も、南北動乱以前もそうだった、彼らの主な関心はその内部にばかり向いている。事件についてはまるで他人事なのだ。危機感をもつ場合も、それはすぐアメリカと中国に向けられる。ほんとうの危機意識はいまも感じられない。
 ひるがえって、わが日本はどうなのだろう。