ダチカンぞいね

2011/12/16

GFsへ

1941年当時
加藤道夫 1918(T7)────23歳──1953(35歳)
堀田善衛 1918(T7)────23歳────────────1998(80歳)
中村真一郎1918(T7)────23歳────────────1997(79歳)
福永武彦 1918(T7)────23歳────────1979(61歳)
加藤周一 1919(T8)────22歳─────────────2008(89歳)
芥川比呂志1920(T9)────21歳─────────1981(61歳)
鮎川信夫 1920(T9)────21歳──────────1986(66歳)
田村隆一 1923(T12)────18歳────────────1998(75歳)

 『若き日の・・・』の第三部までの主な登場人物の生年と没年を拾い出してみた。FとAが生まれたとき、彼らはほぼ30になるかならないかだったということになる。Gが生まれたときは全員が30代。いや、加藤道夫はすでにいなくなっていたのか。・・・ちなみにAの親は大正5年と6年、ツシマイエネコの母親は大正4年生まれ。かれらと同世代だった。
 あとひとり付け加える。
 堀田善衛の保証人になっていたのは慶應義塾塾長の小泉信三堀田善衛の父親と同窓だった。

前言訂正
 芥川比呂志のことばはGに、堀田善衛のことばはFに似ていると前に書いた。それはいまもそう思う。しかし、チクゴタロイモ田村隆一とはむしろ逆。真反対のところ、トイメンに田村隆一のことばがある。だから、かれのことばは目や耳を介さずストレートに入ってくる。次の、堀田善衛が「酒場の二階の喫茶店」で見せられたという未完成のものを見たらGもFもなるほどと感じるのではないか。

「空は
 われわれの時代の漂流物でいっぱいだ
 一羽の小鳥でさへ
 ・・の巣にかへってゆくためには
 われわれのにがい心を通らねばらなない」

 「あまり酒を飲まない」鮎川信夫も、「ちょっと・・・」と低い声で言って上着のポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出し、
「ちょっと読んでみてくれ、まだぜんぶ出来てないけど」と言う。

「高い欄干に肘をつき
 澄みわたる空に影をもつ 橋上の人よ
 涕泣する樹木や
 石で作られた涯しない屋根の町の
 はるか足下を潜りぬける黒い水の流れ
 あなたはまことを感じてゐるのか
 澱んだ鈍い時間をかきわけ
 櫂で虚を打ちながら 必死に進む舳の方位を

 花火を見ている橋上の人よ
 あなたはみづからの心象を鳥瞰するため
 いまはしい壁や むなしい紙きれにまたたく
  嘆息をすて
 とほく橋の上へやって来た
 人工に疲れた鳥を
 もとの薄暗い樹の枝に追ひかへし
 あなたはとほい橋の上で・・・」

 それは、抒情というヴェールなどからはるかに遠く、同じ時を生きているものとしての、ほとんど極限的なまでに痛切でむき出しの、一つの影像であった。
 と、堀田善衛は言う。チクゴタロイモは「こりゃ、フラウじゃないか!!」と心のなかで叫ぶ。
 田村や鮎川から見たら、中村や福永のやろうとしていたことなどは、ただのお遊びに見えたろう。事実、帝大組は、それぞれ別の分野を開拓していく。

 アランに「選択を不可能にする事実の到来を待っている思想家たち」ということばがあるという。
「そういう人たちは、戦争反対、と言いながら、実はそういう「事実」、つまり戦争反対を不可能にする、あるいは不必要にする戦争の到来を待っていたのだ。」と書きつつ、それでも、「こうなることは、とっくの昔から予測していたし、警告していた」としたり顔で言う人たちよりも、まだ現実を生きているぶんだけましだ、と感じていたらしい。
「それとこれとは、折合いはいったいどこでつくのか。折合いはどこででも絶対につかないであろう、と思う。折合いがどこででも絶対につかないとなれば、この折合いのつかないものを二つながら生きて行かなければならないのは、とりもなおさず、ほかならぬオレ、ということになる。どこででも絶対に折合いのつかない、そのドコという場所が、とりもなおさず、ほかならぬオレということになり、折合いはつかぬままに、またつけないままにそれをオレが生きていかねばならぬし、生きて行くのである、と決めることに決心しなければならなかった。」

 この若者は生き残り、アジアやヨーロッパや、そして祖国について考え、そこに生きる過去と今の人々に思いを巡らし、鴨長明藤原定家ゴヤモンテーニュと自分とその時代を引き比べつつ書き残した。ここまで来たら、戦時下で書き進めたが未完に終わったという西行の評伝も読もう。たぶん全集に入っているだろう。図書館から借りてぎょっとしたのは、それがまだまっさらだったことだ。「ダチカンぞいね」持ち歩いて読んでいるうちにバラバラになりかけている。知ったことか。

追伸
 自伝的小説は、主人公が入営する手前で唐突に終わった。
 主人公の母親の長姉が「お婆さん」という呼び名でたびたび出てくる。明治の民権自由を最後まで信奉した人で、学校に行っていないのに英語が読め、翻訳も2冊したという女性だ。
 主人公に「臨時召集令状」が届く10日ほど前に、その「お婆さん」が「熊野に行きたい」と言い出す。それまでお寺詣りもほとんどせず、坊主をバカにしていた人なので、主人公が聞きかえすと次のように言う。
「いくさでやな、よおけい人が死によるがや。兄(あん)ちゃんもな、セレベスなんぞへ行って、もう生きて戻っては来まい。そいからお前様にももうじき召集が来りゃ、そうすりゃ、生きて戻っては来まいと思うがや。それでな、熊野詣にはやな、ダイジュクちうことがあるのを近頃思い出したがや。」
「代受苦ちうのはやな、死んでしもうたモンに代わってやな、生きとるモンが苦行をして、死んだモンの罪障を消滅してせめて後生を安楽にしてやろうちうてやな、熊野の難道を歩いておると、木下闇の道で、死んだモンにまた会うちうことなのがやぜ。亡者はやな、樒の一本花をもって熊野へ行くがやぜ・・・」
・・・その死者とは、しかし誰か? 男自身ではないか・・・。

 実際には、お婆さんのダイジュク以前に「セウシウレイキタ」スグ カヘレ」の電報が届く。お婆さんは、「いたはしいお人」に会ってから帰れと言う。会って帰ってきた主人公に「ひとつ、して来たがけ?」と訊ねる。
──・・・いや、そんなことはしなかった。
──・・・そんならそれで、それもよかろ・・・。

 その後のお婆さんがどう生きたか、「いたはしい人」はどうなったのか、知りたくなるが、それはまた次の機会を待つ。

別件
 加藤陽子へのインタビューを終えた、朝日新聞の尾沢智史という記者の後書きを読んでぎょっとなる。
「ネットには「真珠湾攻撃は謀略だった」という説があふれている。真犯人は米国。陰謀説はいつも単純明快だ。だが歴史家の話は逆だ。次々と人名が登場し、資料が引用され、細部に入り込む。検証に検証を重ねて、やっと事実が浮かび上がる。歴史に向き合うには、単純化の誘惑を退け、入り組んだ道を辛抱強くたどるしかないのだろう。」
 なんという明快さ、単純さ。
「入り組んだ道を辛抱強くたど」ったら、ジジツが浮かび上がって見えてくるわけね? その見えてくるジジツは実は、五重六重、十重二十重の多層構造な上に、五十面百面の多面性をもち、そこを人間だけでなく魑魅魍魎が跋扈している複雑怪奇そのものの混沌なのだとは思ったこともないのね?
 あなたはまさかジジツをコトバだと思ってやしませんよね? ジジツのある側面が明らかになれば、その背後や裏面や斜め横はかえって見えづらくなる。入り組んだ道を辛抱強くたどっていけば最後に一本の道に収斂されるのではなく、逆にさらに迷路の数は増えつづけていく。それがジジツというものの姿なんですよ。だから、ことば化されたジジツとは、その人がどう見ているかを表しているに過ぎない。
 まずその覚悟を決めたところからしか、「歴史認識」は始まらない。・・・もし、あなたが本当に、そんなものを持ちたいと思っているのなら、の話なのではあるけれど。