アメリカ謀略説について

 2011/12/18
GFsへ

 前回の別件に、(たぶん)若造の新聞記者に文句をつけたあとが、どうも気になって仕方がないから、考えてみる。「日米開戦アメリカ謀略説」についてです。書呆子に加わってもらったら華やかになるだろうけど、今日はひとりでボツボツといきます。
 結論から先に言えば、「アメリカ謀略説」も「日本不意討ち説」もどちらも極端で、ちょうどその中ごろのところが真相かな、というふうに見える。
 いま知りたいことは、アメリカがヨーロッパ戦線にむけて兵力を投入しはじめたのは、真珠湾攻撃から何ヶ月後かということだ。朝鮮戦争のとき、在日アメリカ軍が本格的に反撃に出た仁川上陸作戦は、北の攻撃開始から二ヶ月半以上経過してからだった。軍隊を編成し、その作戦に必要な兵器や物資その他を整えるのには、それ相当の日数がかかる。目と鼻の先の韓国への作戦でさえそうだった。ましてや大西洋を越えていく作戦ともなると、もっと日数がかかったはずなのだ。もし三ヶ月以内にヨーロッパ戦線に本格的な部隊移動がおこなわれたとすると、その準備は真珠湾攻撃以前からなされていたことになる。
 チャーチルの回想録で印象的だった箇所のひとつが、日本の奇襲攻撃の報告を受けたとき「思わず、勝った!と叫んでしまった」というところだった。(ちょっと自分だけエエカッコしすぎている気はするけれど)アメリカさえひきずりこめればドイツに勝てる。そのきっかけが欲しかったわけだ。ルーズベルトもまた、そのきっかけを欲しがっていたにちがいない。ただし、「中国だけでも手こずっている日本が、勝てるはずもない我が国に戦争をしかけるほどの間抜けではあるまい」という見通しにも一理ある。が、日本は、その丸見えの定置網に、自分から潜り込んできた。そして、その網の一部を一気に破壊したと有頂天になった。
 つまり、謀略という表現は行き過ぎでも、「日本がきっかけを作ってくれる」ことへの期待はあったと思う。真珠湾をきっかけにして、アメリカはまずヨーロッパ戦線に主力を投入した。攻撃をしてきた日本のことは、半年先のミッドウェーまで後回しだった。
 白川静は「日本はいつパナマ運河を攻撃するのだろうと待っていたのに、音沙汰なしだった」と書いている。日本が本気でアメリカと戦争をやろうと思っていたのなら、当然それは戦略に入っていなければならなかった。まず太平洋を支配しないことには、闘いにならないのだから。だが、どうも日本は本気じゃなかったんじゃないかな。戦争をしかけておきながら、まだ、まるで子どもの喧嘩をしかけたつもりのような、甘えているところがある。それがやりきれん。
 山本五十六を英雄視する人たちもいるが、自分にはただの技術屋、たとえば、原発を騙しだまし運転してきた天才的な技術屋たちと同レベルだったとしか思えない。真珠湾を攻撃して、その次の手はどうする気だったのか、まったく見えてこない。というか、それ以後の見通しは、なにもなかったんじゃないか。ただ海戦という戦闘のみに興味が集中していた。「1年か2年ならあばれてみせます」と言ったというんだけど、実際には半年しか保たなかった。たとえば、(その作戦も検討されてはいたというが)ハワイを攻撃したあと、その一部を占領し、そこを太平洋の要にでもするのでなければ一年も保たないだろうというのが、なぜ常識になっていなかったのだろう。そんなことをしたらオオゴトになる、というのであれば、「戦争なぞできもはん」と、なぜ正直に言わなかったか。
 あのまま戦争しなかったら日本はセッチンヅメにあって、のたれ死にするしかなかった、という見方には賛成する。しかし、だったらどうするかを考えるのが大人の仕事じゃろがいね。ヤケを起こしてキレればすむのなら、子どもだけで一国を動かせる。
 左翼小児病ということばを聞いたことがある。が、あの時代、軍人も政治家も官僚もマスコミも、「対米戦争はすべきではない」と考えていた人々を含めて、エリートたちすべてが小児病にかかっていたとでも思わなければ、日本の動きが理解できない。
 その小児病性は、いまもまったく同じだ。あの時代には唯一そのシンドロームから離れたところにいたはずの経済界も、麻疹性流行病が広がりつつあるように感じられて気色が悪くなってくる。
 かの新聞記者にとっては、「アメリカの謀略」説を「事実」をもって否定することが、なぜ重要なのだろう。それで、なにがハッピーになるのだろう。あの時代も、いまも、日本はどうしようとしているのか、外からも内からも何も見えない。過去の事実ではなく、いま起こっていることがみえない、という現実のジジツに一体気づいとるのかいね、あの記者は。その現実のジジツをつかんで報道するのは学者の仕事ではなく、あんたたちのミッションじゃがよ。
 ダチカンぞね。

別件
 堀江敏幸『なずな』を読みはじめた。いまちょうど半分くらいまで。
 200ページまで読んでも、なにひとつ事件らしい事件が起きていない。というか、読みながらこの読者は、「なにごとも起こってくれるな」と祈っている。そういう意味でドキドキしながら読みついでいる。
 あの小説家はきっと、その読者の願いを最後まで叶えてくれるだろう。今、そんな小説が必要なのだ。