懐かしさはいつも未来の方を向いている

2011/12/21

 GFsへ

 堀江敏幸『なずな』を読み終った。「なにごとも起こるな」と祈りつつ読みついでいった。この小説家ならその願いをかなえてくれる、という信頼感があった。だから本に向かっている間だけは安心して、心を完全に開いておくことができた。なずなが「ほっ」というと、主人公の心が「ほっ」となると同時に、読者の心も「ほっ」となった。小説家はそんな読者の願い通りに、何一つことを起さぬままに仕事を終えた。
 こんな年に、こんな小説がでた。今年出た本のなかで、唯一その本をこの年末に読んだ。ただの偶然にきまっているけれど、どうしてもそこに何らかの巡り合わせを感じずにはいられない。
 誤解を怖れずに、単純化して言うならば、今年はいい年だった。いや、今年もいい年だった。今年もまた不思議なくらいにいい年だった。
 本来なら、空白の一年間になるはずだった。それが、なんとも密度の高い、なにやかにやがギッチリつまった一年になってしまった。自分のせいだけではない。もろもろの出来事が、そういう一年にさせてしまった。が、文句を言う筋合いではもちろんない。何に対してかは分からぬままに、何に対してでもいいから感謝を捧げたい。明日からの短い旅は、そういう旅になるはずだ。・・・考えてみれば、それもまた毎年のことだ。
 いつもどおりに唐突だが、懐かしいという思念はいつも未来の方角を向いている。そのことを無常という。『なずな』はそういう小説だ。無常は、あるべき姿の最上の形である。あえて、唯一のとは言わないけれど。
 少し前、神を仏と読みかえたら分かることがたくさんある、と書いた。同じように、無常もまた、他のことばに言い換えが可能なはずだ。
 
別件
いったい何年になるのか、今年も毎週、飯塚に帰り続けた。もう95だから、いつどうなってもおかしくない、と思うと同時に、こんな生活があと5年でも10年でもつづいてほしい、とも思う。10年すぎたら、こっちのほうが怪しくなっているだろうけど。
 その、グループ・ホームに行くバスに、毎週のように中学生と思われる、目一杯気張った服装をした女の子たちが乗り込んでくる。もちろん男の子たちも乗り込んで来ているのだろうが、elohihigchanには女の子しか目に入らない。バスを待つ間、品評会まで行われる。
──スカート、もっとあげんとおかしい。
──これくらい?
──うん。
──わー、ナアもはいとらんゴタあ。
 その彼女たちが降りるところは、イオンのある「××二区」の停留所。飯塚というより、嘉飯山地区でいちばん華やかな雰囲気のあるのがイオンなのだろう。2〜3度、昼食をとろうと途中下車したことがあるし、母親を乳母車に乗せて連れていったこともあるが、休日だということもあるのだろうが、いつもすごい人出で、人気のある食堂には行列ができている。
 彼女たちはそこに何をしに行っているのかは知らない。けど、たぶん、ボーイ・ハントというようなことではなく、ただウィンドウショッピングみたいなことが主眼なのだろうという気がする。「都会」の雰囲気を味わいたいのだ。
 人混みの安心感。明るさと暖かさと涼しさと賑やかさと開放感を同時に味わえる場所。
 われわれにとっては、もはや煩わしいだけの場所であっても、博多駅があんなに人気があるのも頷ける。いや、それも違うか。週に何回か、あの雑踏の片隅にいる時間は、それはそれで、自分という個体を意識する貴重な時間になっている。
 6月だったか、尾瀬にパック旅行でいったとき、なるほどこれなら人が何度でも行きたがるはずだ、と思うだけのものがあった。できることなら個人で来て、ゆっくりしてみたい。ツシマイエネコもそう言う。その帰り、南の方に降りて行った。最初の町は何県だったのだろう。バスからの景色が福岡の市外地かと思われるような埃っぽくて、何の変哲もないありきたりの町並みに変わって、がっかりした、というよりは馬鹿臭くなった。「日本中を同じ街並みにする必要はなかろう」
 だが、それは、一応都会暮らしを経験したことのある者のいう我が儘かもしれない。いまの若者は、もうひと昔前の商店街では満足できない。テレビに出てくるような風景のなかに自分もいてみたい。テレビにでてくるのと同じ名前の店に入ってみたい。そうやって、日本中の町並みが金太郎飴みたいになっていく。そうじゃない所は、観光地として、かろうじて生き残るしかない。それもまた仕方のないことのように思う。
 年が明けたら、久しぶりに青春18切符を使って、他の街をあちこち見て歩こう。