よみがえりの日々

GFへ

 いつだったか、リィーと毎日、朝昼夕の散歩をした春休みがあって、「こんな毎日なら、あと100年つづいても退屈しない。」と感じたと書いた。そのつづきの(つもりの)話です。もちろんあの「こんな毎日」とは、まったく同じことを繰り返す毎日のことだ。だから生徒には、「けっして今しあわせにはなるな。若者は不幸なのが当たり前だ。しあわせな若者はもうじいさんぞ。」と話した。
 大名時代に読んだユングのなにかの本のなかで、アメリカ・インディアンのある部族が地平線に沈んでいく太陽に向かって、翌朝もまたよみがえることを祈る儀式を毎日おこなっていた、という報告を読んだ。きっとFには手紙をだしたはずだ。(Gには、口でごにょごにょ話したことだろう。)その族長は白人に対して、「われわれのしていることにどれほどの力があるかはわからない。しかし明日も世界がよみがえることを、われわれを追い詰めている君たちのぶんまで祈っている。」と言ったという。
 世界は日々仮死状態を経験しつづける。そして、毎日その仮死からよみがえりを果たしつづける。そのよみがえりとは、太陽が生まれたての赤ん坊にもどることだった。そのようにしてプエブロの人々(だったと思う)は朝、大地を祝福していた。その祝福はかれら自身にも返された。
 が、このことは、べつにアメリカ・インディアン特有のものだったとは思わない。歴史のどこかでキリスト教徒になった人々も、イスラム教徒になった人々も、もちろん仏教徒になった人々も、それ以前には同じように太陽の再生を祈り、大地の再生を祝福していた。10年前に先住民の息子が体験したことは、その遠い先祖にとっては当たり前のことだった。なにを変える必要があっただろう。
 いまも我々は、日々仮死状態に陥る。
 やたらと評判が悪かった麻生太郎が、――人々が朝、目をさまして、「今日も働ける」と思い、夕食を終えて、その一日に感謝して眠りにつくような社会をつくろう。――と言ったとき、なんとも古くさいと思いつつ感動した。それは、ミレーの絵画の世界であり、ドボルザークの新世界のイメージでもあったから。少なくとも、「美しい日本」のような空虚さはなく、「生活が第一(?)」のさもしさもなく、それがどんなに牧歌的であっても、麻生太郎のことばは具体的な実質をともなっていた。「さもしさ」と対応させるなら、麻生のことばには「ともしさ」を感じた。・・・・「ともしい」は漢字だとどの字をあてるのだろう。「乏」か、「羨」か。・・・・
 人は終日力を尽くした充足感にひたりながら眠りにつく。そして仮死状態にはいる。その仮死状態にはいった者だけが「よみがえり」を味わう。喜びを知る。――また、生を得た。――木々も、鳥たちも、森羅万象、山川草木、すべてのものが朝をむかえた喜びで輝きをとりもどす。
 そんな、ごくごく当たり前のことが異様なアナクロニズムと受け取られる今の社会は、どうしても病んでいるとしか思えない。
 よみがえりを期すためには、その前提になる仮死状態が必要だ。
 またしても思い出話になるが、リィーにボール投げを教えると夢中になって遊んだ。あるときニュージーランドからきた若者の泊まる家がないというので一晩我が家に泊めたことがある。180以上あるでっかい奴で、真冬にたぶん布団から足が出ただろうと思う。そいつといっしょに夜の公園に散歩にでた。「ボールを投げてやったら喜ぶよ」というと面白がって遊ばせていたが、何10回やってもリィーがまたボールを届けにくるので、最後はもう投げずに蹴飛ばしはじめた。それくらいその遊びがお気に入りだった。が、あるとき、リィーが自分でボールをくわえてポイと放り投げ、そのボールを追いかけているのを見てびっくりした。「こいつは本当に頭がいいんだ。」
 そのリィーの寝顔は、完全に魂がぬけた顔で、昼間の表情との落差にぞっとするときがあった。
――わたしを見るな!!
 童話に出てくる台詞の意味が、リィーの寝顔でわかった。だから、リィーが死んだとき、寝ているときの顔そのままだったので、かえって静かな気持ちになれた。それは毎日見ていた顔だったから。・・・・冬は自分が寝るまえに必ず布団をかけてやっていた絶滅危惧種がどう感じていたかは聞いたことがない。・・・・
 その、見てはいけない時間、が我々の日常からなくなった。そっとしておかねばならない仮死の時間帯が喪われた。
 よみがえりをはたす前提には、静寂が必要だ。孤独が必要だ。闇が必要だ。無為が必要だ。しかし、いま我々の社会は静寂をきらう。孤独をきらう。闇をきらう。無為をきらう。そうして、この社会は真の輝きを知らないままでいる。温暖化が季節を狂わせる前に、人々は自分たちで季節感を捨ててきた。――そう思えてならない。
 時代錯誤のままでいよう。いまの社会の風潮に対するのろわしさを忘れずに生きよう。
 
別件
 絶滅危惧種は昨日から躁状態に入っている。次から次からことばが飛びだしてくるので聞いているふりをするだけで大変だ。さいわい今は、裏山の桜にからみついているツタを取り除くと、枝きりノコギリをもって登っていったので、静かになった。もうすぐ62だというのに元気なものだ。