先住民宣言

閑話休題

 高校3年のときの現代文の先生は佐賀県出身の石田忠彦先生だった。先生はのちに、鹿児島大学副学長におなりになったのだから、すごい方に習ったことになる。ただし、授業が上手だったという印象はない。起承転結を説明するときに、「神田鍛冶町の糸屋の娘・・・」を教えて下さって、なかなか分かりやすかったことくらいしか覚えていない。しかし、高校生を挑発するのは実にお上手だった。
――お前らはこんな山に囲まれた盆地でお山の大将をぶっててもどうにもならんぞ。佐賀平野に行ってみろ。地平線が見えるぞ。
 「そうか、地平線か。」まだ見たことのない世界が一気に広がった。大学に入ってから北海道の石狩平野に行ったとき、石田先生のことばを思い出した。どんよりと曇っていたこともあって、それはもの凄い光景だった。その後アイルランド出身のオ’何とかの『地平線の彼方』を読んだときもそうだった。広大な農場の息子は病弱で、「一度でいいから地平線の向こうに行ってみたい。」と思いつつ死んでいく。なんとも心の下の方が痛くなる戯曲だった。
 もう20年以上前、今の学校に誘ってくださった無津呂武先生と一緒に四万十川沿いに土佐まで下ったことがある。せっかく来たのだからと桂浜の坂本龍馬銅像の下まで行ってみた。天候の影響があったのかもしれないが、そこから見る太平洋の荒波はとてもじゃないが玄界灘なんてメじゃなかった。それは、「こんな荒波をみて育った奴は権威だの秩序だの無視したくなるのは当たり前だ」と感じるほどだった。
 その太平洋を見ながら無津呂先生が、「昔の者はこの海を見て、”水平線の向こう側はどうなっているんだろう”と、気も狂わんばかりに思ったでしょうなぁ。」とおっしゃった。――この人といっしょに働けるようになって幸せだ――と感じた。
 あるとき、石田先生は、
――お前たちも少しくらい背伸びしてみようと思え。東京の生意気な高校生はもうサルトルくらい読んでいるぞ。
 とおっしゃった。ちょうど『嘔吐』を読んでいるときで、腹の中で、「じゃ、いまサルトルを読んでいる田舎者は生意気を通り越して何になるんだ?」と思った。しかし、サルトルは不思議なほど先住民の息子に何の影響も残さなかった。のちに板垣正夫先生が、「サルトルの言っていることには思いつきが多すぎる。」とおっしゃったことがあって、――なるほどオレが素通りしたのは、それはそれで良かったのか――と感じた。
 またあるとき、石田先生はまたもや高校生を挑発しようと、
――長塚節の『土』を最後まで読みつづけられる者がこのなかに何人いるかな?
 とおっしゃった。あまのじゃくを自認していた高校生は、「あんたは読むのに苦労したのね。じゃ、オレが読んでみよう。」と早速、文庫を手に入れて読み始めた。はまった。ほとんど呼吸しているのも忘れて読みふけった。そのヒロインの現実も、ヒロインの娘の青春も多分そのままこの男の体の芯の奥深いところに静かに着床した。偉そうに「先住民の息子」と名乗る根拠のひとつはそういう体験にある。
 長くなりそうだから、いったん休憩とする。

別件
 12月15日の読売新聞に、「諫早大堰開放へ」という記事が大きく載っていた。「宝の海再生への第一歩」。いや、もうたぶん宝の海は再生しない。少なくとも、諫早大堰は魚介類減少の最大の原因ではない。だから、その事実を確認するために開放すればいいと思っていた。つまり、いくら騒いでも、もう「補償費」は増額されない。
 「有明海の資源枯渇の主な原因は、海苔養殖のための薬品散布だ」という意見を発表した学者がいた。かれはその後沈黙している。ものすごい圧力がかかったのだろうと想像している。
 「二酸化炭素の増加が地球温暖化のおもな理由ではない。おもな理由は氷河期と氷河期の間の気温上昇だ」と発表した外国の学者がいた。彼も以後沈黙している。集中的バッシングがあったのだろう。
 いわゆる自然保護活動を含めて、それらのことを、やんわりと「疑似宗教」と呼ぶ。
 「ユダヤ問題は、ユダヤ人側にも問題があった」と発言したフランスの○○大学学長がいた。かれは直後に学長を退いて公職から身を引いた。最初からそうするつもりで発言したのだろう。(フランスには、ユダヤ問題については公式見解以外の発言を禁ずる法律があるという。「そんな法律は自由に反する」という発言さえ容認されていないのだろう。)
 この社会は、「自分が本当に考えていること」をそのまま公の場では言えないようになってしまった。日本や中国だけでなく、世界中が。――いや、ひょっとしたらアメリカだけはまだ幾らか自由があるかもしれない。しかし、9,11のとき、「奴らの言い分も聞いてやれ」と公に発言した人物もマスコミも、ひとつも知らない。――だから今ちまたにあるのは、比喩だけだ。責任を負わなくてすむ比喩だけだ。国会の場での発言もまた比喩だけだ。比喩とは要するにフィクション、嘘だ。比喩をその究極まで押し広げようとするものは詩という。比喩をそぎ落としてそぎ落として考えようとするのが現実的世界だ。
 いま、そのふたつの区別がなくなりはじめている。それは知性の窒息を意味する。知性の窒息は、感性の扼殺につながるだろう。(と、比喩表現に逃げちゃうもんね。)