定家と式子内親王

堀田善衛 定家名月記私抄(3)

 正治二年40歳

 梅の花にほひをうつす袖のうへにのきもる月の影ぞあらそふ

 なまじな解説などをしたのではぶちこわしになる恐れが多分にあるが、まず、男に去られ、軒端も破れた破屋に住む女性の袖が舞台となっていて、そこに梅花の匂いと月光という、異質にして同時にきわめて親近さのあるものが微妙にたゆたっている・・・・・。「袖のうへ」という、ただそれだけの極小宇宙のなかでの感覚の漂移が主題であり、全内容でもある。古今集中の読人知らずの、一首、「梅が香を袖にうつしてとどめてば春はすぐともかたみならまし」が本歌ということになっているが、そういうことは歌学者にまかせておいていいであろう。要するにつくるためにつくられたフィクシオンなのであるから、そのフィクシオンの精度が問題になるわけである。
 ただ、鑑賞に際しては、読む側にもかなりに繊細な感性を必要とする。テレビを見ているようなわけにはい行かないのである。
 私にはこういう歌や、歌に歌を重ねる本歌取りのことなどを見ていると、作歌態度そのものが、実に天皇制度というものとぴったりと重なったものとして見えて来ることがある。前者はつくるためにつくり、後者は存在し、かつ存続するためにだけ存続している。歴史としては過去と現在だけしかなく、それ自体としての未来はない。    」

建仁元年41歳
「 この一月には生涯のこととしてやはり書いておかなければならぬことがある。
 式子内親王の死である。(1月25日)
 定家は養和の頃に「初参」して以来、約20年間にわたって実に頻々とこの孤独な内親王を訪問している。・・・・たとえばその死の前年の正治二年には、ざっと私が勘定をしてみただけでも実に36回も訪問しているのである。・・・・この内親王は定家より10歳ほど年上であり、・・・・40歳代以後、人はかくの如くにして友人知己や愛した者を失って行くのである。定家の側において先に彼女を失ってはじめて伝説――謡曲『定家』――は成立する。式子内親王の歌を一首引用しておきたい。

  ながめつるけふは昔になりぬとも軒ばの梅はわれを忘るな

 源氏物語に象徴される一文化、あるいは文明の終焉を、この式子内親王の死にみることもまた可能かもしれない。     」

 今回は、堀田善衞のことばだけにしておきます。