閑話休題(2)

 前回は、みずから「先住民の息子」と名乗る根拠のひとつを紹介したところまでだった。
 時間の順番通りに話すと、中学生のとき、白土三平の『カムイ外伝』を息をころして読んだ話は何度かした。そのなかで死んでいくヒロインが、「土の中は暗くて怖いから、水のなかに沈めて。」と頼む。自分の命を狙っていた女の子の体を舟にのせて、湖の中央に進んでいくラストシーンは目の前にいまも残っているいるから、実写の映画を見に行こうなどとは全く思わなかった。「土の中は暗くて怖い。」自分でそれをイメージしただけで、「ワアー!!」。いまでもそうだ。だから土に埋められる前に分子に分解されたいと思う。
 学生時代はときどき週刊誌を隅から隅まで読むことがあった。けっこう面白かった。たとえば、山茶花究の盟友だった「葛飾柴又の寅さん」の確か二代目のおいちゃんはこんな話をしていた。
 昔、浅草に、誘われたり頼まれたりしたら決して「嫌。」とは言えない天使のような女の子がいた。ところがあるとき、誘われたのにその女の子が断った。で、それを聞いた「おいちゃん」が女の子に言った。「どうしたんだよ。あいつ悄気てたぜ。」・・・女の子はしばらく考えてからひとつため息をついて言った。「魔が差したのね。」そんな話が大好きで週刊誌のファンだった。(いまではほとんど読まなくなった理由は知らない)
 その頃たぶん週刊誌で、トルコ嬢の座談会なるものを読んだことがある。きっと売文家がでっちあげたフィクションだろうと思うが、そのなかのある出席者の話だけ覚えている。「一ヶ月働いたら、一ヶ月休憩して体を休める。その一ヶ月休んだあとの最初のお客さんを迎えるまえは胸がどきどきする。」その「ドキドキ」がこっちまで伝わってきた。
 それからどのくらい経ったころか、あるテレビドラマを見た。もう題名も役者さんも思い出せないけど、ある中年女性がやっと結婚する。その最初の夜、「今夜だけは私を娘と思ってくれる?」と頼む。男が優しく新妻を抱いたところでお開き。・・・・この頃になって「セカンドヴァージン」ということばが流行っているらしいけど、あのドラマを書いたのは誰だったのだろうと思う。向田邦子なみの腕前の持ち主だったのだろう。
 藤沢周平の何とかというシリーズのなかで、同じ長屋で暮らす岡だちの女が、「誰かに狙われているようで怖いから、商売の邪魔にならない範囲で護衛をしてくれないか。」という話を持ちかける。主人公がそれを引き受けるとその夜、女が布団に潜り込んできて、「これお礼の前払いだよ。」――翌朝、井戸端で顔を合わせると女はぽっと顔を赤くした。――とある。そんな箇所が胸にきゅんとくる。・・・・話は主人公の迂闊さから女を殺されてしまう、というふうに展開するのだが、それはもう今回の主題からずれる。
 自分が先住民の子孫だという自信、あるいは信念を吐露したつもりなんだけど、ピンポンですか? ブーですか?

別件
 もう推薦で進路が決まった生徒には、「ちょっと古い日本語」の豆テストと、ことわざや慣用句の勉強をさせている。のりは結構いい。数日前、そのことわざ一覧をみていた生徒が、
――あれっ、「渡る世間は鬼ばかり」じゃなかったと?
――「渡る世間に鬼はない」をもじってあのテレビドラマの題名をつけたったい。洒落とろうが。
――??・・・・それ、今じゃ甘すぎると思う。