高貴な遊技の砦

 『定家名月記私抄』<後鳥羽院・大遊戯人間>中の引用の孫引き。

 「詩作(ポイエーシス)とは、一つの遊戯機能なのである。それは精神の遊戯空間の内で行われる。――中略――そこで物事は<日常生活>の中にあった時とは異なった相貌を帯び、ものとものとは、論理や因果律とは別の絆によって結び合わされる。――中略――それは真面目を超越した彼岸に立っている。――中略――夢、魅惑、恍惚、笑いの領域の中にある。」
 「<詩とは学識の夢のごときものである。>」
 「いかなる文化の中でも、詩は活力ある社会的機能を持つと同時に、典礼的機能をも帯びているのだが、――中略――古代の詩はいずれも、そのまま祭祀、祭礼の余興、社交遊戯、技芸、腕比べであり、また謎の課題、訓育、説法、呪法、予言、そして競技なのだ。」
 「遊戯というのは何か独自の、固有のものなのだ。遊戯という概念そのものが、真面目よりも上の序列に位置している。真面目は遊戯を閉め出そうとするのに、遊戯は真面目をも内包したところでいっこうに差し支えないのである。」
 「文化は、全体としてますます真面目なものになてゆき――法律、戦争、経済、技術、知識は遊戯との触れ合いを失ってゆくように見える。そればかりか、かつては神聖な行為として、遊戯的表現のために広い分野を残してくれていた祭祀までも、そういう成り行きを共にするように見える。しかし、そうなった時にも、依然としてかつての華やかな、高貴な遊戯の砦として残っているもの、それが詩なのである。」
    ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫
 たしか19歳ごろ『ホモ・ルーデンス』を読んだ記憶だけはある。内容はまったく覚えていなかった。ただ、そのころ「くすんで」ばかりいた若者にとって「遊び」は胸が張り裂けるほど微かな希望だった。・・・・遊びをせむとや・・・・。
 二頁ほどあとで、堀田善衛は次のように付け加える。
 「ルネサンス規模の遊戯人間(ホモ・ルーデンス)を首長とする宮廷において、「精神の遊戯空間で行われるもの」を、これまた定家に典型的にあらわれているように、作歌に限って、これを真面目一方に執り行い、何かあると「道の面目、何事カ之ニ過ギンヤ。感涙禁ジ難キモノナリ。」ということになると、そこに大遊戯人間との間に、悲劇的、あるいは喜劇的なまでの亀裂が生じて来るのである。」
 これより前のところでは、「定家はさうなき者なり――ドウシヨウモナイ奴ダ」という後鳥羽院の評が引かれていたが、その意味がここにいたって解った気がする。筆者は、「承久の乱も真面目かつ真剣な権力闘争だったとはみえない」と付け加える。

 あまり書きぬいてばかりいると、二人の読む契機を奪ってしまいそうなので今日で打ち切りにする。最後に建仁二年の記事を抜き出す。
 「作歌の上では官能と観念を交錯させ、匂い、光、音、色などのどれがどれと見分けがたいまでの、いわば混迷と幻覚性とが朦朧模糊として、しかも艶やかな極小星雲を形成しているような境地にまで自分をもって行っている。
 そうして実人生としての定家日記は、闇の先に多少の曙光が見えていたとはいえ、心身、環境ともに、繰り返して言うとして実に惨憺たる状況を伝える。それはこの妖にして艶なる極小星雲の、実人生における必然性を問わしめるほどのものである。」
 「(定家にとって歌は、)遊戯を超えた、もう一つ先での遊びでなければならなかった。たとえその先なるものが、文学的に、ほとんど絶対的な袋小路となるものであろうとも。」
 この、ほとんど我々のために書き遺されれたかのような著作は、さらに続編へとつながる。

別件
 ふらっと入った大名の喫茶店のカウンターで、知り合いの中国人夫婦がコーヒーを飲んでいた。随分前に長男坊を教えたことがあった。何年か前にあったときは、「息子を中国に修行に行かせたら、あっという間に、冗談で女の子たちを笑わせるようになった。血は争えんねぇ。」と嬉しそうだった。「何日か前、中国大使がウチで食事した。警官だらけで商売あがったりよ。(中華レストランを経営している)」というような景気のいい話のあと、
――あいつ、まだ結婚せん。いい話はいくらでもあるのに。
――ぼくは25歳のとき、19歳のこいつを押さえつけたよ。
――お母さんは、19歳で散っちゃったんですか?
――散ったとは何よ! わたしは19歳のときに咲いたの!