ことばの力――パート?――

 何ヶ月か前、朝日新聞社の「私たちは信じます。ことばの力を。」というCMにギョッとなったことがある話をした。その続きです。

ベレーザもとエース大野
 (本人のすぐ横で)「理解しているのかなあ、あの子供は。」――「プレーの幅を広げようとし続けるか、やめちゃうかのどっちかなんだと思うんですね。あきらめて元の自分の得意なプレーパターンに戻るか、新しい自分に挑戦しつづけるか。あの子(日本の新エース候補岩渕)はしつづけることができると思います。」

ジャパン新監督ザック
 「君たちはたぶん、フォーメーションというものを勘違いしている。適切なフォーメーションを取れるようになったら、君たちはもっと自由になれるんだ。」

ホンダ新車開発チームリーダー
 「ドライバーが、運転しているんじゃなく操縦している気持ちになる車をつくれ。ドライバーの意図を瞬間的に理解してすぐ反応する車をつくりたいんだ。」

 逆の例もある。
 職場随一のインテリが「松岡正剛がいい」というので一冊読んだ。自分にとっては発見を感じなかった。それだけでなく、枯山水の庭を説明して、「水がないほうが水を感じる」という。・・・・もう読まなくていいな。・・・・それは理屈だ。水は理屈じゃない。理屈の庭には音も匂いも混沌もない。「水のあるほうが水を感じる」
 中沢新一は『フィロソフィア・ヤポニカ』のなかで、「ほんとうに優れた哲学者はつねに自分のことばに具体的なイメージをもっている」という意味のことを書く。ことばを抽象的なものとしてしか扱わない者にとって哲学は異物にすぎない。哲学がわれわれにとっても身近なものであるのは、それが「混沌」の具体的なイメージをつねにわれわれに伝えようとするからだ。夾雑物なしの世界は、フラスコのなかにしかない。

 岩渕はワールドカップのとき「天から舞い降りてきた」世界的スター候補として紹介された。
 ザックの指導を受けたジャパン選手は「見える範囲が広くなって驚いた。」と言う。
 ホンダの車はどれのことか知らないまま。

 たぶん、有能なコーチは、はっと悟らせることばを相手に応じて発することができる。あるいは「おれにも出来そうだ。」と思うことばを。
 ホークスに来た王さんは選手に、「内角を打つときも外角を打つときも、高い球にも低い球にも、目とボールの距離を一定にしろ。」と教えたそうだ。たぶん大半の選手は理屈としては分かっても実行しようとはしなかった。・・・・メジャーリーガーを見ていると誰でもがホームランを打つ。パワーの違いももちろあるんだろうが、デッドボールを恐れず踏み込む選手が多いと感じる。真ん中の球でさえまるで外角球を打つように体重をかけて打つ。最近の日本のプロ野球は面白くない。
 有能な打撃コーチとして数々のチームを強化した中西太は一つのことだけを教え続けたという。「つまることを恐れるな。つまらされた分を押し返すことができるパワーをつければいいんだ。」そして猛練習をやらせた。――オレニモ出来ルカモシレナイ。
 中日の落合によると、ホームランバッターは、だいたい詰まり気味に打つのだそうだ。そうじゃないと本数を稼げない。2軍のホームランキングがえてして一軍に定着しきれない理由はそこらへんにもありそうだ。
 たぶん同じことを、もとオリックスのローズは次のように記者たちに向かって言った。
 「ホームランは腕力で打っているんじゃない。足の力を利用して打つんだ。」
 
 自分はこういうことばに「力」を感じる。

別件
 毎日新聞に次のような記事があった。書いたのはコラムニストの天野○○。下の名前は忘れた。
 正岡子規の随筆をその俳句より高く評価している。とくに『仰臥漫録』がすごい。その『仰臥漫録』は岩波書店から手稿の復刻版が出ている。それを読むと、正岡子規の内面と向かい合っているかのようなリアルさを覚えた。ただしもう品切れになっている。「もし宝くじに当たったら、ぜひ手に入れてみるといい。」
 まずは、福岡市民図書館にあるかどうか確かめたが、ない。今度、九大図書館を探ってみる。3人で協力して、その所在を確かめよう。ついでに「宝くじが当たったら」その何分の一で手に入れられるのか、アマゾンで調べてみよう。
 そうか、偶々だがその新聞記事を読んだ夜、『坂の上の雲』を見た。香川照之正岡子規を見たかったのだが、それよりも菅野美穂の律に惹きつけられた。もうあの女優さんを見る機会はないかもしれないけど、「律を演じたひと」として、ずっと記憶することになる。