絶滅危惧種のことその他


GFへ
 今日も引きつづきダラダラと書く。
 なにしろ歳末だ。今年は自分に褒美をやり損なった。最後の一年も、ひたすら誠実に働いたのだから、なにかもらってもバチは当たらないと思うのだけれど。けっきょく今日一日眠りつづけたことが一番の褒美かな。
 絶滅危惧種は相変わらず元気。「お昼ご飯のとき起こすとが可愛そうかなと思うたけど、うどんやったからね。」
 荒江団地でいっしょに暮らしはじめて幾らも経たないころ、夕食を食いはじめたらサイレンが鳴り出した。「火事だ」とつぶやいたかと思うと女の姿は一瞬にして消えた。・・・30分ほどして戻ってきてまた飯を食いながら、得々として見てきた様子を話す。彼女をこっそり「天然記念物」と呼ぶことにした。現在の絶滅危惧種の由来である。
 彼女はたぶん13歳のころに父親を亡くし、以後は母ひとり娘ひとりで生きてきた。それから結婚するまでのことは一切省略する、なぜなら彼女は、オレといっしょに暮らしはじめたとき、まったく何も意識せずに当たり前のように13歳のところから生き直したのだ。だから今の推定年齢は○○歳。若いはずだ。
 国語部会福岡支部反省会の話をつづける。
 大濠の和田親分が志賀直哉の話をしはじめて止まらなくなってしまった。卒業論文だったのだそうだ。
 「『暗夜行路』は、伏線を置いていたのに作者自身がそのことを忘れてしまっていたり、大事な登場人物がいつまでたっても姿を見せないままで終わったり、実にいい加減な小説なのです。なのに彼の代表作と評価されている。それだけ偉大な男だと思います。『城之崎にて』は、別に何が書きたかったというわけでもない身辺小説です。しかし、その細部はじつに生々しい。その生々しい描写にしか志賀直哉の関心はないのです。」
 気持ちよく酔った親分の話は終わりそうになかったので、それぞれの卒業論文のテーマを教え合おうと提案した。15人ほどの参加者のなかで、近現代だったのは、親分とオレと坂口安吾をやった同い年の男の3人だけ。意外なほど少なかった。「国文」とはそんなものなのかもしれない。なかには、本職は心理学で、「なんだか英語まじりの題名でしたけど忘れました。」という女の子もいる。国語科の面白さはそんな所にもある。いや、文学というものに範囲はほとんどない、ということなのだと思う。
 
 昨年、結婚以来はじめて二人で年越しをした。なんだか調子が出なくて、紅白歌合戦が始まるころには、「寝ようか?」。今年は少しは馴れて起きているのかな。
 老人ホームに奥さんが入居している岡田さんは、「子どもたちは別のときにバラバラ帰ってくるというし、大晦日はここに泊めてもらおうと思っとります。」と言っていた。家に帰る人もいるだろう。それぞれの年の瀬の過ごし方がある。
 『飛ぶ教室』の終わりごろだったろうか、夜の町を見下ろしている主人公が、「あの明かりのひとつひとつにそれぞれの生活があるんだ。」と感じるところがある。ほかのところは全部忘れた。でも、オレにとってはそこだけで完全な文学だった。
 なんども繰り返すが、「明日も今日みたいだったらいいのに」と思い、「一年後も、10年後も、100年後も今日みたいだったらいいのに」と思う感情を「しあはせ」という。そうだったらいいのにと思いつつ、それが実現する可能性はほとんど0にちかいことを知っている感情を「あはれ」という。「しあはせ」を知らない者に「あはれ」は分からない。
 逆説あそびをしているわけじゃない。そもそもオレたち人間自体が逆説的にできているんだ。
 いい年を迎えることにしましょう。

別件
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