「悲の宗教」

GFへ
 今朝、福岡は雪景色。気温が高いから長続きはしないだろうが、わが机から眺める裏山はけっこう美しい。そのかわり朝の散歩は大変だった。行きはメタボ母ピッピが動こうとしないので、下の公園まで抱えていった。帰りは落第坊主ガロがブルブル震えはじめたのでまた抱っこして戻った。おシッコしかしていないので、雪がやんだらまた連れて行かねばなるまい。
 昨日はなんだか興奮していて疲れた。飯塚に帰るときは大抵そうだ。老人ホームの母親はいたって健康なのだが、昨日は帰りにおセンチになって、ちょっと困った。部屋に二人でいるうちに、どうやら息子と二人暮らしをしている気分になっていたらしい。母親の回路はすぐ変わるから、その切り替えについていけないこともある。帰ったあとはまたすぐ、みんなと一緒に暮らしている回路に切り替わったはずだけど。
 今日は気持ちも落ち着いたので、あと半年で使えなくなるアナログ専用の卓上テレビでニュースショウを聞きながら、少々長めに。
 昨年末、数10年ぶりで『ベン・ハー』を見た話はしていないよね?
 覚えていたのは、ベン・ハーが芦舟で流される場面と、例の戦車競走の場面だけだった。いや、あとひとつ、ガレー船の船底でオールを漕ぐとき、そのスピードを木槌で調整することも妙に覚えていたから三つになる。それにしても大半は忘れていた。
 その忘れていたことの代表が、「これは宗教劇だったんだ!」。
 奴隷の身におとされたベン・ハーが渇きに苦しんでいるとき、誰かが水を飲ませてくれる。ただし、その人は後ろ姿しか見えず、素肌が出ているのは手だけ。・・・・「日本の天皇映画と一緒か」・・・・天皇の顔がモロ出しになったのは、新東宝の『明治天皇日露戦争』がはじめてだったんじゃなかろうか。体が小さかったから年齢をごまかして、近所の人が見に行くのにくっついて何度も見に行った。
 市民権を手に入れたベン・ハーが故郷に帰る道筋でひとりの老人に出会う。
――すこし前に、われわれをお救い下さる方がお生まれになった。もう成人なさったはずだから、天に召される前にひとめお目にかかりたいと思ってやってきた。
 ベン・ハーが答える。
――オレは奇蹟なんか信じない。
 老人はびっくりした目になって言う。
――オレたちの人生じたいが奇跡じゃないか!
・・・・この話はいっぺんしとるな。
 そして、ベン・ハーは、ほんとうに、奇蹟を目の当たりにすることになる。
 どうも「宗教的奇蹟」はいまだにニガテだが、この人生もチビたちも花も雪も奇跡そのものだとは思う。この世界じたいがミラクルなのだということを否定する宗教はないんじゃないか。いや、宗教ぎらいの人々は、なおさら肯定するだろう。

 ここで話がコロっと変わる。
 喜びをすべての人が共有することはなかなか長続きしない。共有することじたいが結構むずかしい。いっぽう、悲しみは多くの人で共有することができる。しかもその共有は永続することが可能だ。
 仏教に普遍性というものがあるとするならば、それは上のようなことなのではないか。
 「悲の宗教」。
 ただ「慈悲」から「慈」を除いただけだが、そうすれば、イスラムの人々とも肩を接して生活していける気がするが、どうだろう?

別件
 落第坊主のガロは、オシッコがちかくて、2時間おきくらいに庭に出してやらなくてはならない。出たら、用事をすませたついでに裏庭に行って何やらごそごそし始め、「ガロ」と呼んでも帰って来ない。しかし、裏まで呼びに行って「家に帰るぞ」と声をかけたら、クルッと向きを変えてトコトコすぐについて来る。まるでお父さんが迎えにくるのを待っているみたいだ。