声帯を使わない本当の肉声

GFへ
 今日は、わが守護神リィの話あたりから始める。
 守護神リィは御利益あらたかで、絶滅危惧種の母親がピンチだったときは、写真にお線香を毎日あげて、「おっかさんを守ってください。」と頼んだら、本当におっかさんがピンチを脱した。
 そういう頼みごとなどをするときは、実際に声を出して言うことにしている。そういう習慣がついたのは、弟の墓参りを繰り返していた時からだ。墓石をなでながら声を出して話しかける。別段のことを言うわけではない。「じゃ、また来るからな。」それだけで、こっちの気持ちが落ち着く。だから、墓参りは一人でするほうがいい。
 自分の父親がいよいよ入院したときは、もう、ただ父親が安らかな時間をすごすことだけを頼んだ。相当に認知症が進んでいたから、会話らしいものはほとんど出来ず、父親が何を考えていたのかは分からないが、リィは力を貸してくれたと思っている。
 リィがまだ元気だったころ、毎晩のように下の公園に連れて行って走らせた。リィは全速力で走って、ほとんど直角にスピードを緩めずに曲がることができた。そのターンを2回して戻ってくる。
 ある時、あとから来た絶滅危惧種がその様子を見ていて、「いいトコ見せようとして・・・」とつぶやいた。実際にカッコよかった。あれはリィが我々に見せるパフォーマンスだったのだ。
 最後の日の昼間、絶滅危惧種は庭から居間を覗いているリィを見て、「今日は特別きれいな顔をしているな」と感じたという。その夜、お父さんに対するリィの態度はどこかよそよそしかった。きっとリィは、「もうすぐ、お母さんやお父さんとお別れするんだ」ということを予感していたのだ。だから、お母さんには、自分の輝きをも一度印象づけた。お父さんにはもうその時間がなかったけれど。
 村田喜代子のエッセイに、前代の犬(たしかラブラドール)が亡くなったとき、東京にいる娘さんに連絡すると、「私わかってた。」という返事が返ってきたという話がある。東京にもどる前、歳とった犬に「元気にしていなさいね。」と声をかけたら、「もう会えないと思うよ。」と返事をしたというのだ。先住民の息子はその話を、何ひとつ疑わずに信じる。それが、声帯を使わない本当の肉声だからだ。
 父親が強い痛みを訴えるのと同時にぜんそくの発作を起こしたとき、救急車を呼んで市内の大きな病院に運んだ。症状はおさまり、薬も効いて痛みもほとんど訴えなくなった。そうなると父親は、「さぁ帰ろう」ばかりを言う。「お医者さんが、もう帰っていいですよ、ち言うてくれるまで居らにゃいかんと。も少し元気になろう」そばについている間、何度も同じ会話がつづく。何回目かにそう言うと父親が眠りはじめ、こっちも一息ついた。そのとき、「もう家に帰られんとやろもん。」父親の地声が聞こえてはっとして見た。父親は、「ふあぁ」と、いつもの声をあげた。しかし、あれは空耳ではない。父親は、声帯を使わずに本音を吐露したのだ。あの人は、すべてを分かっていた。そのうえで「ふあぁ」を繰り返していた。
 最後の頃、病院に着くともう夜中で、父親は静かに眠っていた。その寝顔をみると信じがたいほどに美しくなっていた。「お父さん、良かったね。」思わず声が出た。それから横で、小さな声で、あれこれ話しかけた。子どものころのこと。大人になってからのこと。そして、「ありがとう」と言った。「お父さんの子どもでよかったち思いよるよ。お父さんは、おれ達のために力いっぱい頑張ってくれた。おかげでもう大丈夫やからね。オレと姉ちゃんのことも、お母さんのことも、もう何も心配せんでいいからね。ありがとうね。」
 父親は静かに眠りつづけていたが、きっと、鼓膜を通さずにオレのことばを聞いていたと思う。なぜなら、こっちの話が終わったら、また、いつものように、「ふあぁ」と声を出したからだ。
 オレの手紙をたまに受け取る者が、「手紙からは肉声が聞こえるけど、ブログでは何かが失われている」と言う。そうかもしれない。奈良大学の上野先生の筆跡からも、単なる意味以上のものが伝わってくる感じがする。
 いつだったか、もう30年以上前のことだろう。我が師の本を読んでいるとき、活字なのに筆跡のように感じたことがある。あの先生にはかなわないままで終わるのだな。そのほうが何かうれしい。

 声帯を使わない声、鼓膜を通さない声、肉筆や肉声のように感じる文字、それがほんもののことばなのではないか。

別件
 1年のときも、2年のときも、出席日数がぎりぎりで、どうにか進級した生徒がいる。3年になってからも似たりよったりで、なんとか卒業はできそうだ。ただし今日もまだ来ていなくて、机の上にその生徒の受験計画表が乗っていた。1、明治。2、明治。3明治。4、明治。5、立教。6、日大。7、福大。日文が志望で、西南が入っていないのは、日文・国文がないからだろう。もし首尾よく第1志望に合格したら、モロにレオナの後輩になる。そんな愉快なことが起こるのを楽しみにしておこう。