先生の顔が嬉しそうやった

GFへ
  1月22日 記

 昨日で3年生の授業が全部おわった。とは言っても、来週からも受験生たちは出てくるのだから、あまり実感はないが、ともかく終わっちゃった。
 不思議な学校だったと思う。
 教員になってすぐ、『坊ちゃん』を読んで、笑った。「明治時代も今も、学校はほとんど変わっとらん。」25年間勤めたこの学校もそうだった。いや、それ以上に、「今どきこんな学校があるんなんて」と感じるほど牧歌的なところがあった。
 ある卒業生は、アルバムに、
──教室で、ジャンケンに負けた者は授業が始まってもベランダに隠れておく、という遊びがはやった。自分が負けたとき、国語の先生はまる一時間気づかなかった。けっこう辛かった。
 と書いていた。辛かったのは、真冬のことだったこともあるが、それよりも自分のいないことに国語の先生が気づいてくれなかったのがこたえたらしい。
 また別の生徒は、
──ウチの担任はとうちゃんみたいな人だった。
 と書いていた。事情は知らないけど、母子家庭だった。そいつも四月からは大学四年生になる。(なんだか、これから、そんな思い出話がごろごろ出て来そうだな)

 たしか古井由吉の随筆に、「月を見なさいと指さしたのに、月を見ないで指先を見る子どもがいる。そんな子は鈍だ。しかし、そんな子のなかには、人の心を感じとるのには敏な子が混じっている」という意味の文章があった。
 今の三年生で、福大に通るかもしれない生徒が2〜3人混じっていたクラスがある。古典を教えたのだが、その数名以外は受験に要らないというので、一年間いろんなことをした。今月に入ってからは、受験を控えている生徒は別室で勉強、ということになったので、昔の音楽を聴かせた。「最終回には今の歌を持ってくるから、我慢して聴け。」
 結局、最終回がなくなってしまったら、廊下で生徒が訊いた。
──先生が聴かせたかった今の歌って何だったんですか?
──平原綾香の「ジュピター」
──なるほど。納得します。
 そのクラスの授業で、和歌を取りあげた。
──作者の女はどんなことを相手の男に伝えようとしたのか?
──どうせ、エッチなことやろ?
──ヤマカンだけにしてもすごいね。お前は天才かも知れんぞ。どうしてそう思った?
──質問するときの先生の顔が嬉しそうやった。

別件
 大相撲初場所が終わった。結果がどうなったのかは知らない。大好きだった岩木山がいなくなってから、あまり見る気がしなくなった。
 ドシンとぶつかっても相手が下がらなかったら負け。下がってもa相手が目の前にいなかったら消えたら負け。分かりやすかった。その単純さがなんとも優雅だった。「お相撲さん」らしかった。弱くなりかけたころ、岩木山が動き回っているのを見て、やたらと悲しかった。
 もう、仕方ないから、これからは武州山隠岐の海を応援しよう。