アジアの人間と自然が、すべての高等宗教と思想を生んだ


GFへ
 堀田善衞『上海にて』を読みはじめたのだが、31ページでピタッと止まってしまった。
 「戦争と哲学」という章だ。そこで筆者は以下のようなものすごいことを言っている。(ほかの者にとっては常識なのかもしれないが、こっちにとっては大発見だった。・・・いや、これもまた多分、何回目かの大発見なのだろう)
──実に中国、またインドの、豊かであって同時に酷薄苛酷を極めたようなアジアの自然の面構えは、人間とこの世界について徹底したことを考えさせてくれる。・・・アジアの人間と自然が、すべての高等宗教と思想を生んだその理由が、私なりに納得出来るように思う。──
 そうなのだ。レヴィナスを読んでいるときに感じた「非西欧的」なものの正体がそれなのだ。パレスティナもカナンもアジアなのだ。ユダヤ教はアジア人の宗教なのだ。だから、「西洋人には永遠というものが理解できないらしい。ユダヤ人だけが例外だ。」と感じていたのは間違いで、ユダヤ人は西洋人ではないのだ。今のわれわれに必要な本は、『日本人とユダヤ人』ではなく、『中国人とユダヤ人』『イスラムとチャイナ』なのだ。その視点を持てたら、きっと中国のことがあきれるくらいに理解できるようになる。
 『上海にて』は集英社文庫に入っています。
 その文庫本の裏扉に、『橋上幻像』を見つけた。大名時代に読んで、そのときはボウッとして読んだのだが、あとになって「も一度ちゃんと読みたい」と思いつつ、題名も思い出せなかったものだ。注文したから、またいつか、報告する。

追記
 『上海にて』読了。
 いい本だった。もちろん時代の制約のなかでの考察だが、だいたい(宗教などを除けば)時代の制約を超えた考察なぞを信用する気はもともとない。寝転がってでも読めるから、これは勧められます。ただし、時々むくっと起き出すことになるだろう。ひょっとしたら起き出して、その続きは正座して読むかも知れないけれど。
 読みつつ感じたこと。
 堀田善衛という人は、鴨長明的な資質の人だったのかも知れない。鴨長明的とは、基本的に目の人という意味です。見たものにすぐ意味をつけて整理する人ではなく、見たことをそのまま記憶する人です。聞いたこともまた同然。『方丈記私記』は、書かれるべくして書かれた本のような気がしてきた。

 別件的なことをひとつ。
 書中に、日本の敗戦直前から直後にかけて、「中国人へのメッセージ」を、いわば日本人の代表としてチラシにして配ろうとして、熱病に罹ったように命がけで奔走したときのことが簡単に回想されている。──たとえ実現していたとしても何も変わらなかったに違いないけど、せめて実現していたらと思う──その話は、『広場の孤独』のなかで唯一ストーリー性のある箇所だったように記憶している。そのメッセージを中国語に訳した女性を室伏クララといい、室伏高信(明大中退!)の娘だったとある。
 ふと、この人物は室伏広治の祖父、アジアの鉄人と言われた室伏重信の父ではないかと思った。インターネットで調べてみたが分からない。ただ、室伏高信もクララも中国で、(別々に)客死している。重信は中国で生まれたとある。もともと日本人離れした風貌と体躯の持ち主だと感じていたのだが、調べられたのはそこまで。あるいは、及川だったら何か知っているかもしれない。

追記の追記
 『広場の孤独』はわが青春の書のひとつで、いつかまた読み直したいと思っている数少ない本です。──そうか。堀田善衞は自分にとって特別の人だったんだ。──教員になってから知った『アカシアの大連』の最終ページは、『広場の孤独』の終わり方とそっくりでした。